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	<title>沖縄バプテスト連盟所属　ルア教会 &#187; 霊的スランプに学ぶ</title>
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	<description>沖縄県浦添市にあるプロテスタント教会です</description>
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		<title>霊的スランプに学ぶ（第４回：知性・感情・意思）</title>
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		<pubDate>Tue, 13 Feb 2018 03:22:08 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[霊的スランプに学ぶ]]></category>

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		<description><![CDATA[ロイド・ジョーンズ：霊的スランプから学ぶ 第４回：知性・感情・意思 プロのテニス選手はみんな利き腕だけが極端に太いです。それは利き腕にラケットをもって集中的にプレーするからです。見た目にはアンバランスです。昔はよく「専門 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ruahbaptist.com/wp-content/uploads/2018/02/DSC00925.jpg"><img title="SONY DSC" class="alignright size-thumbnail wp-image-2084" src="http://ruahbaptist.com/wp-content/uploads/2018/02/DSC00925-150x150.jpg" width="150" height="150" /></a>ロイド・ジョーンズ：霊的スランプから学ぶ<br />
第４回：知性・感情・意思</p>
<p>プロのテニス選手はみんな利き腕だけが極端に太いです。それは利き腕にラケットをもって集中的にプレーするからです。見た目にはアンバランスです。昔はよく「専門バカ」と言う言葉を使いました。クイズ番組に出たある有名私立大の教授は西洋史では日本で有数の専門家でしたが、クイズで出題される一般常識問題にとんでもない答えを出して視聴者を大笑いさせました。自分の専門分野以外はからっきし無知なのです。私たちの人生はバランスが大切です。信仰もバランスが大切です。ある部分が成長して、ある部分が未熟というのは不健全な信仰と言えます。バランスの取れた信仰とはどういったものでしょうか。</p>
<p><span id="more-2083"></span></p>
<p>１．サタンの狡猾さに備える</p>
<p>霊的なスランプに陥る人の場合、信仰生活に対するイメージにある幻想をもっていることがわかります。「一度、イエス様を信じるなら悩みがなく、喜び、幸せに暮らせる」こう考える人はいつか霊的スランプになるとＪ師は言っています。クリスチャンの国籍は天国であり、罪赦され、永遠のいのちに入っています。しかし、同時にサタンに絶え間なく攻撃される地上に住んでいるのです。私たちは「信仰の戦い」の中にいます。防御しなければ攻撃をまともに受けて、撃沈させられてしまいます。私たちは武装し戦わなければいけないのです。そして、サタンはあらゆる角度から攻撃をしますし、あらゆるタイプの人に近づいてきます。あからさまに迫害してきたり、光の天使になりすまして、甘い誘惑で近づく場合もあります。とても狡猾なのです。私たちはサタンの目的を知らなければなりません。サタンの目的は神の恵みを台無しにし、クリスチャンが意気消沈して、光が消され、塩気を失うことです。極端な言い方をするならば、クリスチャンとなった証明はサタンの攻撃を受けると言うことです。サタンから攻撃されない人はクリスチャンでないか、サタンから影響力のない人と認定された寂しい無力なクリスチャンのどちらかです。ですから、試練（迫害など）はクリスチャンの証しです。この試練が来た時に、サタンの策略を知らないので、私たちは落ち込んで、惨めな気持ちになります。その裏でサタンがほくそえんでいます。そして、霊的スランプになってしまいます。このサタンの策略を理解して、戦いに備えるクリスチャンになって行きましょう。</p>
<p>２．トータル的クリスチャン</p>
<p>「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」ローマ６章１７－１８節．</p>
<p>このみことばでパウロはローマ教会の人たちが、クリスチャンの揺るぎない信仰の土台を確立して、解放と自由を味わっている状態を神に感謝しているのがわかります。どんな状態かと言いますと、「かつてサタンの奴隷、罪の支配下」にあった彼らが今はそれから解放されて、クリスチャンの自由を味わっていると言うことです。かつては惨めなクリスチャンだったのです。彼らは信仰をバランスよく成長させ、トータルで整えられたクリスチャンに変えられたのです。</p>
<p>ローマ教会の解放の理由は「伝えられた教えの規準に心から服従」したからです。この箇所には信仰の３つの領域が表されています。知性、感情、意思です。まず、第一のステップに「伝えられた教えの基準」がありました。Ｊ欽定訳聖書には「伝えられた一定の教理」という表現になっています。使徒たちから教えられた正統な一定の教理を知性、思考力をもって学んだわけです。これこそ大切な基準です。これからずれたら、ボタンの掛け違いで、すべてが間違いになります。どんなに勢いがあり、繁栄しても異端は異端です。第二のステップに「心から」この表現に感情がともなって同意し、学んだと言うことが言えます。学んではいるけど、「なぜ」「でも」と感情が反発する場合は「心から」とは言えません。ローマ教会の人たちは喜んでアーメンと言えたと言うことです。第三のステップに「服従した」ここで意思がみことばと結びついて機能しています。みことばを悟って、心から同意して、そのみことばが生活の中で実践されて生きたものとなっている。これが解放の理由でした。この知性、感情、意思の三要素がトータルでバランスよく整えられないといけないのです。サタンは信仰を三つのどれかに偏らせ、アンバランスなクリスチャンにしようとして働きます。</p>
<p>３．偏った信仰の特徴</p>
<p>①	知性への偏り</p>
<p>ある人たちは頭だけを動員して、信仰を理解しています。聖書の釈義、歴史、背景など興味を示して、熱心ではありますが、キリスト教的哲学、観念でしか捉えません。ヨーロッパの教会はこの知識偏重の信仰に陥りました。その結果、神学は発展し、偉大な神学者を輩出しましたが、その代わり、教会は閑古鳥が鳴き、立派な教会堂は観光客で維持されています。そして、何よりも第二次世界大戦の時に、独裁者が台頭した時、教会は無力でした。その暴走を指をくわえて見ているだけでした。日本でも知識偏重で、信仰が冷えた教会が存在します。Ｊ師はこのような知識偏重の教会には人間的優しさに欠け、論争が多く、人間的な言葉が飛び交う、そういう雰囲気を持っていると言っています。なぜなら、せっかく研究の対象となる福音が実生活に適用されないから、人生に変化がまるでないのです。このようなグループに属する人の中には、ヒューマニズムに汚染して、聖書から逸脱した活動があります。知識だけで、ヒューマニズム化した信仰で、ハートに信仰が降りてこない悲劇です。また、ローマ１２章の賜物において教えの賜物を持った人も、そのような傾向にならないように注意が必要です。</p>
<p>解決として、知識に偏りがちな人は、霊的な部分を養う必要があります。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい（ローマ１２：１１）」。このみことばは教えの賜物を持つ人への助言ですが、「霊に燃える」ことがポイントです。熱い信仰でみことばを研究すると言うこと。ルカは教養のある教えの賜物を持つ人でしたが、彼の文章には霊に燃えているのが伝わります。霊に燃えるにはよく祈り、賛美をささげることです。</p>
<p>②	感情への偏り</p>
<p>ある人たちは福音が感情により影響を与えている人たちもいます。そのような傾向のある教会に行くと、明るく雰囲気があります。「ハレルヤ」と熱烈歓迎してくれます（ハグする人もいる）。賛美もにぎやかで、手を上げたり、たたいたり、踊る人もいます。基本的に優しい人が多いです。しかし、それが体験的、情緒的な解放を求めることが目的となったりして、大きな危険をはらんでいます。人間は本来、宗教的に造られているいますので、霊的な体験を求めるのは当然ですが、偏るのはよくありません。このような人が引越しをすることになった時、新しい町で教会を選ぶ基準は会堂や、人々の雰囲気、賛美などです。牧師が聖書に忠実に釈義しているかよりも、いかに感動する説教をするかで決めます。そのような教会には人を魅了する、カリスマ的牧師が出現します。また、彼らが求めているのは幸福感、喜び、興奮です。これらを提供できない教会は彼らにとって良い教会ではないのです。聖書を深く学ぶこと、生活に適用することは重要ではないので、思考が停止している信徒が多いです。普段は熱心ですが、感情が落ち込むと責任を放棄したり、みことばで信仰に立つことをせず、感情に流されます。みことばが絶対服従の指針ではなく、気が向くと従う、自分が落ち込んだり、気分がすぐれないと、背いたりします。そうやって霊的スランプになって行きます。</p>
<p>解決として、聖書を学びに重点を置くことです。天気のような感情に流されない、みことばに立つ生き方をする方法を学びます。感情が落ち込んだ日も、気が向かない日も、しっかり責任を果たし、忠実であるように生きるすべを学ぶのです。ヨハネは愛を強調する情緒的な人ですが、手紙は福音をしっかり押さえて語っています。</p>
<p>③	意思への偏り</p>
<p>また、ある人たちは意思、行動に焦点を当てるグループがいます。彼らは伝道を強調します。このような教会で救われた人はほとんど、有名な伝道者の集会で、前の方で招かれて、本当に福音が理解したのかはさておき、伝道者が熱い説教を語り、イエスを受け入れよと招いたので、その迫力に圧倒されて、心より足が先に動いたという人が多いのです。「主のために」「決断」とか言う言葉がよく使われます。たとえば十分の一献金も聖書を深く学んで、その根拠を理解し、それが恵みであり、祝福であることを知って、自らの意思でささげるのが普通ですが、牧師が「あなたは主のものを盗んでいる」「天の窓が開くと言っている、試しなさい」とか半強制的に急き立てられてやるような傾向があります。伝道、献金、礼拝出席、これらは自発的なもので行なうのが理想ですが、それらが見えない圧力で、やらないと不信仰だと思われる雰囲気があって、やらされる。意思が強調されると、そのようなことが起こります。異端と言われるグループは論外ではありますが、意思を強調します。福音を知性で十分に消化する前に、「従え」と圧力をかけるので、こちらも思考停止になります。熱心ですが、依存心が強い信徒で育ちます。カルト問題を起こす教会もこのグループが多いです。このグループの指導者も福音を理解していません。</p>
<p>解決として、指導者依存から脱却することです。指導者が教えるまま受身にならず、ベレヤの人々のように、パウロが言ったことが、果たして聖書的かどうか、自分の頭で考えて、答えを導き出すことです。カルト集団に取り込まれる人は、家族不全で育った人が多く、そのような心の問題も扱う必要もあります。イスラエルの人々はイエス様がメシアであるか、自分の判断ではなく、指導者の判断を最終的に仰ぎました。指導者には当然、重い責任がありますが、指導者に従ったイスラエル人も滅びました。最後は自分の責任で考え、判断する必要があります。コリント教会には奴隷の信徒が大勢いました。奴隷にもパウロは福音を教えました。福音はどんな人にも御霊によって理解できるものです。誰でも自分の判断で聖書を理解できます。</p>
<p>４．教職者の問題</p>
<p>牧師たちには耳の痛い話ですが、Ｊ師はこのような偏りを生んだ原因に、教職者の指導が問題だと指摘しています。牧師になるために献身した人は、まず、神学校に入ります。神学校はどこかの教団に属するものです。教団にはその歴史と教理があります。異端でなければ、多少の相違があってもお互いに交流はできます。神学校で学んだ神学が強烈にその人に働いて、その人の牧師としての素地ができます。説教を聴けば、どこの教団かわかるものです。その教団の神学を土台として聖書を読んでいくと、その神学から導き出される解釈になります。知性重視の教団の牧師はそのように育てられ、信徒はその指導を受けます。そのようにその教団の流れを組む人間がたくさんコピーされていきます。人には賜物もいろいろ、タイプも背景、育ちも違います。そのような個性が失われ、金太郎飴のように同じ信仰者が作り出されるなら、それは聖書的とは言えません。このような偏りを回避するために、牧師も信徒も個人ディボーションを習慣にする必要があります。神様が個人的に語りかけるみことばを聴く習慣です。ディボーションのない生活を送るクリスチャンは、直接の語りかけ、教えがないために、指導者の釈義したその流れの教えを受け身で取り入れるようになります。</p>
<p>知性・感情・意思の３つの要素はバランスが大切なのです。３つのうち１つだけ欠けても良くありません。福音が３つの領域に浸透して、はじめてその人は福音化したことになります。聖書の知識はよく知っているけど、頭でっかちで愛情も行動もとまなわない人はバランスに欠けます。いつも明るく、喜び、賛美していても、聖書をよく知らない、愛の行いがない、伝道しないもバランスに欠けます。伝道も奉仕もよくするけど、それが聖書に基づいていない。指導者にせかされて衝動的にやっているのもバランスが悪いですね。イエス様は３つの要素が整った全人的信仰者を育てようとしています。最後に３つの領域であなたの開かれて、良い部分は３つのうちどの領域ですか。逆に弱点と思われる部分はどこですか。そして、それを解決するために、どう補っていきますか。課題を見つけましょう。</p>
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		<title>霊的スランプに学ぶ（第３回：歩く木のような人間）</title>
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		<pubDate>Mon, 29 Jan 2018 03:00:47 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[霊的スランプに学ぶ]]></category>

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		<description><![CDATA[１章で霊的スランプを脱することは急務であり、重要であること、そして、その基礎として２章では信仰義認について学びました。そして、今回の３章で次のステップの学びに入ります。テキストになるのが、以下のマルコの福音書にある盲人の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://ruahbaptist.com/wp-content/uploads/2018/01/DSC00123.jpg"><img title="SONY DSC" class="alignright size-thumbnail wp-image-2068" src="http://ruahbaptist.com/wp-content/uploads/2018/01/DSC00123-150x150.jpg" width="150" height="150" /></a> １章で霊的スランプを脱することは急務であり、重要であること、そして、その基礎として２章では信仰義認について学びました。そして、今回の３章で次のステップの学びに入ります。テキストになるのが、以下のマルコの福音書にある盲人の目が開かれる箇所です。</p>
<p>「彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。 それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」と言われた。」マルコ８章２２－２６節。</p>
<p style="text-align: left;">
<p style="text-align: left;"><span style="background-color: #ffffff;"><span style="color: #ff0000;"><br />
</span></span></p>
<p style="text-align: left;"><span style="background-color: #ffffff;"><span style="color: #ff0000;"><span id="more-2061"></span></span></span></p>
<p style="text-align: left;">１．盲人のいやしを通しての教訓</p>
<p style="text-align: left;">なぜ、この盲人のいやしは段階的に少しずついやされたのでしょうか？もちろん、イエス様が苦戦して、手間取ったからこのような方法になったわけではありません。他の箇所では瞬時にいやされるケースもあります。全能の神の力によっていやされるのに、なぜ、このようないやされ方があるのでしょうか？ジョーンズ師によると、イエス様はあえて、その時の弟子たちに教訓を与えるために、このようないやしを行なったと解説しています。この出来事の前の節では、弟子たちがイエスの教えを悟らないで苦労しているのがわかります。</p>
<p style="text-align: left;">それに気づいてイエスは言われた。「なぜパンがないといって議論しているのですか。」・・「まだわからないのですか。悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。」・・「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。」・・イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」</p>
<p style="text-align: left;">ここでイエス様がいやしのプロセスで教えたいことは、この盲人はイエス様に触れましたが、少しは見えましたが、はっきりと物事を認識できなかったと言う事です。人間が歩く木のように見えました。まだ、十分に悟れない弟子たちと同じ、中途半端な状態です。ジョーンズ師は、霊的スランプに陥る原因の一つは、霊的な真理を悟れない状態にあると指摘しています。イエス様は五千人にパンを与える奇蹟を見せました。弟子たちもそばにいて、それを体験したわけです。しかし、それを体験しても、霊的にまだ開かれていなかったので、今度は四千人を前にした時に、同じように悩みはじめました。そして、自分で何か努力してパンを上げないといけないと考え、思い煩いました。イエス様がどういうお方か悟っていたら、このような悩みとはおさらばしているはずです。私たちもイエス様を信じているということは、全能の神の力が私たちのうちに働くことになります。その真理を深く悟るなら、どれだけ自分の人生に大きな可能性があるかがわかるはずです。それなのに、そのお方が誰なのか悟っていないので、自分の力だけを見て、落ち込み、嘆くようになるわけです。</p>
<p style="text-align: left;">イエス様は盲人を段階的にいやすことで、「この盲人は人を木のように歩く人間に見えている。君たちも、この盲人のようなのだ。中途半端にしか、真理を悟っていない。だから、私の言葉が悟れないし、現実の世界で悩むしかないのだよ。」そう言っておられるようです。ジョーンズ師は「この人は盲人ではないが、同時に盲人である。」と言っています。この言葉を真理を悟れないクリスチャンに適用するなら、「あなたはイエスを信じてクリスチャンとして、新生はしているが、悟れないので、クリスチャンとしての本来の喜び踊る生き方ではなく、霊的スランプで悩み、うなだれているのだよ。」と表現したらいいでしょうか。イエス様を信じている、だからクリスチャンである。新生しているし、罪赦され、天国にも行けるだろう。しかし、なぜ、そんなに不幸せな表情をしているの？なぜ、敗北感でいっぱいなの？そういう人を歩く木のような人間と言う事です。歩く木のような人間のクリスチャンは、自分でもそう感じています。救われ、新しくされた者とは思えない自分に困惑しているのです。</p>
<p style="text-align: left;">クリスチャンなのに確信がない、「冷たくもなく、熱くもない」「見ているのに、見えていない」こういう状態のことを言います。</p>
<p style="text-align: left;">２．霊的スランプの人は何を見ているか</p>
<p style="text-align: left;">① この世のものを求めている</p>
<p style="text-align: left;">見ているのに見えない、聞いているのに悟れない。こういうクリスチャンは、何を見て、何に関心を持っているのでしょうか。ジョーンズ師は「新聞の三面記事を読みあさり、実社会や劇場で、人々に目立つ、賞賛されるような生き方に憧れ、それを素晴らしいと感じ、うらやましがっている人。これこそ充実した人生だと確信している人」と表現しています。世の中の人は、「もっと出世すれば、収入が増えれば、美しくなれば・・」とその先に幸せがあると思い込んでいます。しかし、ハムスターの回し車のように、ゴールのないレースに参加しています。そして、そのレースで虚しさ、絶望感が増していくのです。歩くの木のような人間は、まさにクリスチャンでありながら、そのような価値観に縛られている人と言えます。それで、霊的に真理が遮られているのです。</p>
<p style="text-align: left;">② 律法、ヒューマニズムに生きている</p>
<p style="text-align: left;">十戒とか山上の説教などの教えをめざすことで、それを人生の目標とするような人です。トルストイも山上の説教にあこがれ、小説で得た印税を全部、貧しい人に施しました。もちろん、その行為自体は良いことであり、間違っていません。しかし、それは福音から湧き出る恵み、いのちによって、成されるべきです。福音に生きる生活ではなく、キリスト教的倫理、道徳、社会活動によって、あらゆる善行を行なう生き方です。言葉を変えるなら、このような生き方をする人は、自分で自分を救うために善行している。自分の善行で人生を充実させようとしている、自分の善行で自分を納得させようとしています。前回触れましたが、福音の基礎は、自分で自分を救うことはできない。人間は絶望的状態にいるということを認めることが初めです。</p>
<p style="text-align: left;">３．歩く木のような人間にある要因</p>
<p style="text-align: left;">① 教理を知らない</p>
<p style="text-align: left;">聖書を読み、適用する前に、正しい教理が心に刻まれていないなら、あいまいで適当な理解になり、その適用、生き方が、聖書とはずれていきます。キリストはどのようなお方か？その死と復活の意味、聖霊とは？罪について、赦しについて、救いについて、教会とは？これらを明確に学んでいなければ、自分本位の解釈と適用によって、いずれ霊的スランプになります。聖書は「真理はあなたがたを自由にする」と言っています。逆に言えば「真理からはずれるなら束縛される」と言う事です。</p>
<p style="text-align: left;">② 神との親密な関係がない</p>
<p style="text-align: left;">人間関係が希薄な人が、孤独でさまざまな心の苦しみを抱えるように、神とのいのちで結ばれた人格的関係がなければ、幸福を見いだすことはできません。神との親密さがなければ、当然、虚しく、自分で幸福を築き上げなければいけません。それで、人間的なものに頼って、幸福を探し続け、悪循環に陥るわけです。それも延命治療のようで、いつか、綻びが出てきます。</p>
<p style="text-align: left;">③ みことばに従う決意がない</p>
<p style="text-align: left;">みことばは好きで、学びも大好き。しかし、じっさいに自分の生活にみことばを適用するとなると、葛藤して、従うことをしない人です。たとえば「ささげなさい、赦しなさい、伝道しなさい」とみことばが語る時、古い肉に生きていた私たちには、これらの命令は心地よいものではない場合があります。できない理由探して、従おうとしません。福音とは自分ではなく、キリストにしていただくことです。そのためにはその人が従うと言う意思が大切です。トラックのような大きな乗り物の方向を変えるのに、ハンドルを動かさないといけません。自分ではできなかもしれませんが、キリストに委ねて「ささげます。赦します、伝道します」という行動のともなう意思が必要なのです。みことばの方向に向かう時、聖霊が働いて、それらをできるように助けてくださるのです。心から従う意思のない人の特徴は、儀式的な宗教が好きです。使徒信条、主の祈りは唱えるのが上手です。祈りも賛美もよくできます。しかし、みことばの実践になると「これは現代に合わない」「そのままだと厳しすぎる」「自分は弱いから無理」とか言います。また、旧約は嫌いとか、えり好みするのも問題です。聖書は熱いか冷たいか？味方か敵対か？のどちらかです。明確に従う決意が必要です。</p>
<p style="text-align: left;">また、聖書の権威を認めない人。これらも同じことです。子供のようになって単純にみことばを信じる者でなければなりません。現代はポストモダンと言われ、絶対的価値観はなく、それぞれの考え、意思を尊重するというものです。人間はそれぞれ自分の背景、教育、体験があります。それらを基に聖書を解釈していけば、いかようにも聖書は解釈できるようになります。私たちは聖書が教える原則、教理を土台とした真理に自分を合わせていくのです。みことばの権威に服することが人間の立場です。そうでないと自分に都合の悪いものは勝手に解釈して、真理を曲げることになります。</p>
<p style="text-align: left;">４．見えるようになるために</p>
<p style="text-align: left;">① 見えないのに見えると思っている</p>
<p style="text-align: left;">ユダヤ人は、ユダヤ人として生まれたら、救われるし、神の啓示を受けていると勘違いしていました。取税人とパリサイ人の祈りの中で、パリサイ人の祈りは、「罪深い取税人のようでないことを感謝します」と祈っています。表面的な行いで自分が神様から受け入れられると勘違いしています。まったく霊的な盲人です。</p>
<p style="text-align: left;"><span style="color: #ff0000;">「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」ヨハネ９章４１節。</span></p>
<p style="text-align: left;">このような思い上がった人は、自分が霊的盲人であることに気づかないといけないのです。聖書を学んで、これで満足というのはないのです。神の知恵の深さは生涯かかっても十分ということはありません。</p>
<p style="text-align: left;"><span style="color: #ff0000; font-family: ＭＳ Ｐゴシック; font-size: small;">「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」Ⅰコリント８章２節。</span></p>
<p style="text-align: left;"><span style="color: #ff0000; font-family: Helvetica; font-size: small;"> </span></p>
<p style="text-align: left;"><span style="color: #ff0000;">「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」詩篇１１９篇１３０節。</span></p>
<p style="text-align: left;">ここで「わきまえのない者」という意味は、聖書を読む時に、いつでも初心者のように、新鮮な心で教えられる態度の人です。説教を聞く時に、「この話、前も聞いたぞ」と思う人は、そのような人ではないですね。一つのことが生き方に変わるまで、何十回も聞かないと身につかないのです。</p>
<p style="text-align: left;">② 見えない自覚はあるのに見えるように求めない</p>
<p style="text-align: left;">霊的なものに関心を示さない人、生活がある程度、順調であれば、神を求めようとしない。試練に遭うと慌てて神を求める。どんな時も飢え乾いて神様を求めていないなら、得ることができません。バルテマイの必死の願いを学ばないといけません。</p>
<p style="text-align: left;"><span style="color: #ff0000;">「彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。」ルカ１８章４１節。</span></p>
<p style="text-align: left;"><span style="color: #ff0000; font-family: ＭＳ Ｐゴシック; font-size: small;">「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」黙示録３章１８節。</span></p>
<p style="text-align: left;"><span style="color: #0000ff;">動物は反芻するのがきよい動物です。反芻はみことばを心に宿し、思い巡らす人のことです。「この意味は何なのか？主は何を伝えたいのか？」そのような態度をいつも持っている人は、すぐにはわからなくても、１０年後、２０年後のある日、開かれる瞬間があります。その時の感動は体験した者でなければわかりません。そのような霊的なものに貪欲な人こそ、見えるようになるのです。</span></p>
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		<title>第２回：正しい基礎に生きる</title>
		<link>https://ruahbaptist.com/bilble/bssulanp/536.html</link>
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		<pubDate>Fri, 05 Aug 2011 00:15:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ruah</dc:creator>
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		<description><![CDATA[Ｊ師は霊的スランプを克服する必要がある主に２つの理由について語っています。１つ目は本人のためにと言うことです。霊的スランプに陥って、落ち込むクリスチャンとして生きていると、それは本人にとってとても辛いことです。聖書には勝 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>Ｊ師は霊的スランプを克服する必要がある主に２つの理由について語っています。１つ目は本人のためにと言うことです。霊的スランプに陥って、落ち込むクリスチャンとして生きていると、それは本人にとってとても辛いことです。聖書には勝利者としてのクリスチャンが描かれており、主イエスの御名で悪魔を制し、この世を救う使命があります。それなのに、敗北者かのようにうなだれている。これほど矛盾した状態はありません。政治家、医者などの地位にある人は普通の人より、より高い基準でその振る舞いを見られています。それは宿命です。クリスチャンも世の人から当然、素晴らしい生き方をする人たちだろうと見られています。それなのに敗北感いっぱいの自分は耐えられるものではありません。２つ目に、世の人々のためにと言うことです。初代教会ではクリスチャンは証人という生き様がありました。それは自分の生き方を通して、キリストを証しすると言うことです。これは日本人がイメージする品行方正の清く、正しいクリスチャン像は聖書的ではありません。聖書的なクリスチャンとは、逆境にあって、倒れそうで倒れない、どんな境遇でも喜びと感謝を失わない。自分は弱くても、イエス様によって強くされているという確信のもとに生きると言う生き方です。見た目は普通で、むしろ弱そうに見えるのです。しかし、世の人とは土台が違うのです。</p>
<p><span style="color: #ff0000;"> 「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」Ⅱコリント6章９，１０．</span></p>
<p><span style="color: #ff0000;"> </span></p>
<p><span style="color: #ff0000;"> </span></p>
<p><span style="color: #ff0000;"><span id="more-536"></span></span></p>
<p>１．正しい基礎の上に信仰を立てる</p>
<p>① 信仰義認</p>
<p> 　私たちがどんな状況でも力強く歩める理由は、その基礎にあると言えます。その基礎に信仰を築いているからこそ、揺るぎない心で歩むことができるわけです。それではここから霊的スランプを脱出するために、正しい基礎を確認していきましょう。はじめのボタンをかけ違うとすべてが間違ってしまいます。聖書が教える初歩の初歩である教えを正しく認識しないと、この霊的スランプからは抜け出すことはできません。正しい基礎とは「信仰義認」です。</p>
<p><span style="color: #ff0000;">「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」ローマ３章２８節。</span></p>
<p> 　このことを話すと、当たり前すぎてバカバカしいと思うかもしれませんが、信仰義認を本当に理解して、体験している人はそう多くはいません。アメリカでは「私はクリスチャンです」と自己紹介しても、次の質問に「新生しているクリスチャンですか？」となります。キリストによって罪赦され、義とされることを本当の意味で受け取っているクリスチャンは一部なのです。１８世紀のジョン・ウェスレーもクリスチャンホームで育ち、神学校を出て、牧師になりましたが、信仰義認がわかったのは、３７歳の時です（ウェスレーが救われたのはその時か、以前からなのかは議論されています）。教職者でさえも信仰義認がよくわかっていなかったのです。</p>
<p>② 信仰義認を破壊するもの </p>
<p>　パウロの信仰の闘争は、この信仰義認を守ることに終始していました。ユダヤ人は律法を守ることで神との関係を築こうとしていました。自分の行為に焦点があっていて、自分の行いこそが、自分の人生を左右すると考えています。この律法主義をパウロは徹底的に攻撃しています。律法主義者は本物のユダヤ人ではないとまで言っています。</p>
<p><span style="color: #ff0000;"> 「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」ローマ２章２９節。</span></p>
<p> 　マタイ１８章で１万タラントの借金をした、しもべの話があります。ある人が日本円で計算したところによりますと、１万タラントとは６千億円に相当すると言っています。どこかの県の年間予算に匹敵します。そんな巨額なお金を王様に借金したのです。王様が催促すると、驚いたことにこのしもべは、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』・・借金を返すと弁明しています。６千億円を返せると思っているのでしょうか？律法主義者の特徴は自分をかいかぶっているということです。信仰義認を受け入れた人なら、その生活、生き方が信仰義認に根ざしていなければなりません。信仰によって救われたと言いながら、その生き方が自分の行いで義を立てようとするなら、それは基礎を忘れた生き方です。なぜ、そのような生き方をするかと言うと原因は２つほどあるようです。１つは、１万タラントを借金したしもべのように、自分の借金（罪）がどれだけ大きいか理解できていないと言うこと。６千億借金があるのに、立派な行いをして千円、神に返済したからと言って満足する人は滑稽です。自分の力で生きようとする人は、自分が返済不能の人間だと言うことを知らないのです。「自分には欠点もあるけど、良い所もあるはずだ」と勘違いするから、何か自分の力で何とかなると錯覚が起こります。霊的スランプを脱したいと思う時に、それが御霊の力によって成されるものだと知らない人は、「自分にはできない」となって、落ち込みます。２つは、新生された命よりも、古い自分に執着する場合です。自分の力で何かを実現したい。何か特別な存在でありたいと、自己実現をめざす人です。古い人は死んで、新しいいのちに生きるように勧めているのに、何かを成し遂げたくて仕方ないのです。この世の価値観ではそのような自己実現を持ち上げます。騙されないように気をつけましょう。</p>
<p>２．深い罪の自覚</p>
<p> ① 神との関係で自分を量る</p>
<p> 　信仰の義認を享受するための第一のステップは「深い罪の自覚」です。前章で１万タラントの借金のしもべの話をしましたが、このしもべは自分が返済不能の借金を王様から赦してもらったのに、友人に貸したわずかなお金を赦免できず、首を絞めて牢屋に入れました。この話を聞いたら、なんてひどい男だと思います。しかし、私たちも似たような感覚をもっていることがあります。私たちは人間関係の中の比較で自分を見てしまいます。他の人と比べて負い立ちが不幸だとか、虐待された、愛されなかった、だから自分は不幸だと感じます。つまり、被害者の感覚です。人間関係で見たらそう言えるかもしれません。しかし、聖書は神と自分の関係を教えます。神の似姿に創造された人間は罪を犯して、神のイメージを破壊してしまいました。私たちは自分を傷つけた誰かに対しての落し前をずっと問題にします。しかし、１万タラントの借金をした神様にはそれほど傷つけた、ひどいことをしたと自覚はありません。むしろ、自分の人生について文句や怒りさえ抱いています。これこそ罪の自覚のない人の特徴です。人間関係の被害の部分は、神様との関係で赦すことが可能です。いずれにしても被害者意識を捨てない限り、信仰義認の最初のステップをクリアすることはできません。Ｊ師は「まず初めに倒れることがないかぎり、再び立ち上がることはあり得ない」と言いました。これは逆説になりますが、本当の喜び、揺るぎない信仰に至るには、まず、絶望、落ち込みが必要だと言うことです。人と比べたり、環境がうまくいかないで落ち込むのとは違い、神の御前で自分が罪人だという自覚で嘆くと言うことです。</p>
<p> <span style="color: #ff0000;">「また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」ルカ２章３４節。</span></p>
<p><span style="color: #ff0000;"> </span></p>
<p><span style="color: #ff0000;">　<span style="color: #000000;">救世軍の創始者ウィリアム・ブースは、奥さんの証言することによると、毎晩、部屋で祈る習慣があったそうです。そして、そのたびに泣き声が聞こえて来て、罪の赦しを乞う祈りをささげていたそうです。救世軍とはメソジスト派から出たグループ</span></span>で、きよめ派と言われる人たちです。どの集団よりもきよめを強調して、きよめを人生の目標とするのです。ブースも当然、とても敬虔な生き方をしていました。そのきよい生き方をしているはずのブースが毎日、泣き崩れるほどの悔い改めをしていたのです。ブースには深い罪の自覚があったのです。自分は殺人者ではないかもしれない、政治家や偉い人たちのように裏で悪いことをしているわけでもない、それでも自分は彼らと変わらない、同じ心の闇を持つ、神の御前でひどい罪人だという自覚が必要なのです。</p>
<p> 　深い罪の自覚をもたらすには、１つは神様の与える環境に身を置くことです。神様はいたずらに私たちを今の環境に置いているのではありません。この環境を通して、自分の心を探らせ、罪の自覚を与えて、自分では人を愛せないことを悟らせ、神に頼るように導かれるのです。自分が嫌だと感じる人、問題がある人、そのような人こそ、自分の罪を悟らせるために神様が与えた人です。それなのに私たちはそういう神様が与えた人を、避けようとします。会社も教会も出て行く理由は教理とかの問題よりも人間関係にあるようです。人と葛藤が生まれた時、自分の心の闇が表面化します。それが嫌でみんな問題を避けるのです。外に問題があると思うのです。ですから、いつまでも自分の罪が表面化しません。神様が与えた環境で学ぶ態度を持ちましょう。</p>
<p>　２つ目は、みことばによる罪の自覚です。イザヤがみことばに触れて、自分の罪に震え上がったような、みことば体験が必要です。聖霊により頼みながらの真剣なディボーションが必要です。</p>
<p><span style="color: #ff0000;"> 「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」 ルカ７章４７節。</span></p>
<p> 　深い罪の自覚とその赦しを体験した者が、愛を知り、愛に生きることができます。</p>
<p> ② 一番問題にすべき罪</p>
<p> 　Ｊ師は私たちが犯す罪の中で、人間関係や犯罪の部類を中心に考えていることを指摘している。本当の罪の本質は神との関係で犯す罪だと言います。</p>
<p><span style="color: #ff0000;"> 「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」マルコ１２章３０節．</span></p>
<p> 　私たちが自分を吟味する最重要なことは「私は全身全霊をもって主を愛しているだろうか？」もし、そうでないなら、それこそ罪人であると言っています。ウェストミンスターの信仰教理問答の最初に書いてあるように、「人間の究極的目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を楽しむことである。」人間は神と一つになり、神の栄光のために生きることが造られた目的です。そこに本当の意味で幸せになる道があります。しかし、現実の私たちはどうでしょうか？実際には自分の栄光のために、自分の幸せを追求していることはないでしょうか。それが罪の本質だと言うことです。そのことに心を痛めたり、罪の呵責はあまりない気がします。私たちはイエス様を信じて、永遠のいのちの中に入っています。天国に入ればもらえるのではなく、すでにいのちの中に入っているのです（Ⅱコリント５：１７）。そして、その永遠のいのちは神を追求していく中にあるのです。</p>
<p><span style="color: #ff0000;"> 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 」ヨハネ１７章３節。</span></p>
<p> ホセア書で何度も不貞を働かす女がイスラエルで、それを赦し、心を傷つけられているのは神様だと表現しています。これだけの片思いはどこにもありません。私たちを傷つける者はご自身の「瞳に触れる者（ゼカリヤ２：８）」と表現しています。格闘技好きの私にはこの意味がよくわかります。瞳は一番大切で攻撃してはいけない反則の部分です。私たちを瞳のように守ると言っているのです。何よりも十字架でご自身の大きな愛を示したお方です。このような熱愛で私たちを見守る神様に私たちはどれだけの思いを寄せているでしょうか。私たちは誰かが自分を無視しているのではないかとか、連絡をくれないとかで悩みますね。これを神様の視点で考えると、それだけ神様を無視し、その愛に応えていないかを知ります。私たちも親になれば、子供の無神経さに苦しめられます。そんな時、自分の子供の頃がどれだけわがままで、親を苦しめていたのか、親の心、子知らずであったかを知ります。「神を心から愛さない」これこそ罪だと言うわけです。</p>
<p>３．偉大な救いを知る</p>
<p> 　自分が１万タラント（６千億）の借金を抱えて、どうしようもなかった時に、それを赦免してもらうなら、その赦しをどれだけ感謝しても尽きることはありません。本来、私たちは地獄に行く存在でした。地獄とは永遠に続く苦しみの場所です。私たちは地上の苦しみで疲れ果てていますが、地上では夜眠ることもでき、趣味や楽しみもあります。しかし、地獄は一瞬たりとも休まることのない絶望的な場所です。よみに下った金持ち（ルカ１６章）は自分の舌を冷やすことも許されません。わずかな慰め、憐れみもない場所なのです。Ｖ・フランクル博士は人間はどんな苦しみの中でも希望があるなら、生きることができると言いました。しかし、地獄は永遠の滅びですから、希望のかけらもありません。そこに当然のように真っ逆さまに落とされると運命づけられていた存在である私たちが、なぜか恵み、憐れみで救われると言うのです。</p>
<p><span style="color: #ff0000;"> 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ６章２３節。</span></p>
<p> 　ある人たちはイエス様のことを、自分の人生の模範とする道徳の教師のように、またある人は、自分を祝福してくださる、ご利益の神かのように考えます。ですから、他の宗教と変わらない薄っぺらな信仰にとどまるのです。深い罪の自覚があって、その絶望の中で、キリストを仰ぐ時に青銅の蛇を仰いだ荒野のイスラエル人が救われたように、私たちの救いがそこにあります。どんなにかその救いが偉大で、感謝なことなのかを知ります。この偉大な救いを知った人には以下の態度が現れます。</p>
<p> ① 自分に執着しなくなる</p>
<p> 　自分は罪深くて、どうしようもない存在だと深い罪の自覚によって悟っていますから、自分を見なくなります。キリストの成された御業に注目が行きます。証しをする時は、自分の至らなさはほどほどに神がどれだけ素晴らしいのか、その神をほめたたえずにはいられなくなります。</p>
<p> <span style="color: #ff0000;">「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル１２章２節</span>。</p>
<p> ② 自分に頼らなくなる</p>
<p> 　自分が絶望的な存在だと自覚しているので、自分に頼ることはなくなります。対照的に、キリストの偉大さがよくわかるので、そのお方に完全に依存し、より頼む人生になります。自分でやるという意識がなく、キリストが私を通して行うと考えているので、かえって大胆になり、どんな不可能に思えることにでも挑むようになります。</p>
<p> ③ 比較で生きなくなる</p>
<p> 　今まで比較対象で生きていたので、人を見ては羨み、嫉妬していましたが、何もできない絶望的な自分を救う神が自分を愛していると知っているので、比較対象から自由にされて、羨んだり、嫉妬したりがなくなります。人の言葉にも傷つかないようになります。そして、自分が１万タラントを赦された罪人ですから、人に対して、寛容にならざるをえません。</p>
<p> ④ 感謝と喜びがあふれる</p>
<p> 　地獄が運命であった自分が、神様の憐れみ、恵みで救われたので、自分の人生は拾われた人生、おまけの人生のように思えます。環境に関係なく、自然と感謝と喜びがあふれて来ます。御子さえ惜しまず与えるお方がともにいるので、どんな災いのような環境になっても、きっと良くしてくださると信頼に包まれています。</p>
<p> ⑤ 依存症・偶像から解放される</p>
<p> 　キリストの愛と赦しを知ったら、今まで大切にしていた物、人に執着したのが馬鹿らしくなります。もちろん私たちには仕事、家族、財産などは大切なものですが、キリストに比べれば色あせてしまうのです。キリストには変えられませんと、心からそう思うのです。</p>
<p> <span style="color: #0000ff;">　イギリス生まれのジョン・ニュートンは産業革命のただ中で、ひと儲けしようと貿易を始めました。アフリカから黒人を捕らえて、アメリカへ奴隷を売る商人として繁盛していました。彼は信仰深い両親に育てられましたが、やがて無神論者になり、哲学で自分を支えるような人になりました。そんな彼もある時、イギリスに帰る途中に彼が所有する船グレイハウンド号が大嵐に見舞われました。破損した船体に海水がどんどん入り込んできて、絶望的な状態でした。自分の体をロープに縛り付け、９時間にも及ぶ恐怖の時間の中、彼は自分の人生を振り返りました。罪人の限りを尽くした自分、それにもかかわらず、神を認めず、背いた人生。それらを悔い改めて、神に赦しを乞い、救いを求めたのです。そして、奇蹟的に彼は助かったのです、その時、彼の心に神の憐れみと救いが迫ってきました。彼はその体験を期に、クリスチャンになり、牧師として働きます。そんな中で書いた詞があの有名な「おどろくばかりの」です。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;"> </span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">Amazing Grace! How sweet the sound<br />
大きな恵み、なんという甘美な響き</p>
<p>That saved a wretch like me!<br />
私のようなろくでなしを救って頂ける大きな恵み</p>
<p>I once was lost, but now am found;Was blind,<br />
かつて、私は自分を見失ってた　でも今、わたしは、</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">私が何も見えなかったということに　気がついた</p>
<p>but now I see.<br />
しかし、私はいま見える</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;"> </span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">　ニュートンは自分の死を直前にして、このような言葉を発しています。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;"> </span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。一つは、私がおろかな罪人であること。もう一つは、キリストが偉大な救い主であること。」ジョン・ニュートン</span></p>
<p>黙想：</p>
<p>１．あなたはまったくの恵みによって救われたという確信がありますか。今でも、良い行いで自分が正しいとされたい誘惑があるでしょうか。</p>
<p>２．あなたは自分がまったくの罪人で、１万タラントの借金をしたしもべと同じ立場だと自覚していますか。「あの人よりはまし」とか思うことはないですか。</p>
<p>３．自分の無力さを思い知らされた体験がありますか？それは神様がどう扱ってくださったか、分かち合ってみましょう。</p>
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		<title>第１回：霊的スランプの考察</title>
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		<pubDate>Fri, 28 Jan 2011 01:02:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[霊的スランプに学ぶ]]></category>

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		<description><![CDATA[２０世紀最高の説教家と言われるロイド・ジョーンズ師の格調高いメッセージは今でも続々、翻訳が出ていて、牧師、信徒両方に人気があります。その中でも名著と呼ばれる「霊的スランプ」をテキストに学んでみたいと思います。この本の主張 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>２０世紀最高の説教家と言われるロイド・ジョーンズ師の格調高いメッセージは今でも続々、翻訳が出ていて、牧師、信徒両方に人気があります。その中でも名著と呼ばれる「霊的スランプ」をテキストに学んでみたいと思います。この本の主張を取り上げ、私たち自身で消化し、適用して行きましょう。聖書は詩篇４２，４３篇を取り上げています。とくに４２篇をはじめに読んで、黙想してみましょう。</p>
<p>１．霊感された詩篇</p>
<p>詩篇は人間の赤裸々な感情、思い、うめきが綴られています。きれいごとではなく、人間が現実に直面する様々な苦悩、痛みを正直に表現されています。<span id="more-286"></span>自分の苦悩を告白する中で、ある時は自分に降りかかる災いによって自分の人生を嘆き、敵を呪い、神様に対して疑惑の念を表しています。「こんなこと言っていいのか？」とクリスチャンなら思ってしまうことも正直に現わされています。しかし、この詩篇は神に霊感された聖書なのです。この詩篇によって多くの聖徒が慰められ、励まされて行きました。それは神の御霊に触発された著者たちが、偽りのない気持ちを表しているからです。これは神様に向かう、魂の格闘であって、一人不満をぶつぶつつぶやく罪とは違います。つぶやきは自分の思い通りに行かない人生を一人言か、他人に不満をもらしますことです。神に向かっているのではありません。ロイド・ジョーンズ師はこのように言いました。「詩篇を一言で言い表せば、イスラエルの霊感された祈りと賛美の書であると言えよう。人が日常に用いることばによる真理の啓示である。啓示されたこの真理は、神の民が遭遇する状況によって、刺激され、感情、願望、また苦悩の中に再現される。」</p>
<p>２．霊的スランプと現代のクリスチャン</p>
<p>ジョーンズ師は戦前戦後に活躍した人です。彼が（５０年前ぐらい前）指摘している世代と私たちは違います。しかし、むしろこの問題はもっと深刻になっていると言えます。ですから、彼の指摘はその当時以上に考えさせられることです。それは「クリスチャンが幸せそうに見えない」と言う事実です。ジョーンズ師の時代のヨーロッパは第二次世界大戦によって、人々の心は荒廃していました。それはクリスチャンも例外ではなかったようです。現代の日本は物に囲まれ、豊かでありますが、さまざまな問題の中で国家の末期症状と言えます。世の中と比例して日本のクリスチャンも問題の中で押しつぶされそうであり、敗北感と不幸せな信仰者が多いと言うことです。これはどんなに表面的に笑顔で取り繕ってもわかるものです。太宰治が「クリスチャンの偽善的笑顔」と指摘しているように、それは不自然に見えるのです。ジョーンズ師は「幸福感」と言っています。幸せを実感していなければ、それは表に出てきます。「ふり、はず、つもり」ではだめなんですね。幸福感を喪失したクリスチャンは、内心で絶望し、詩篇の著者のように魂が「思い乱れて」いると言っています。<br />
そして、不幸せに見えるクリスチャンの存在が世の人々が教会に行くための大きなブレーキとなると断言しています。世の人々は真理とか神の救いには関心がありません。彼らの興味は「実際的なもの」です。実利と言うことです。つまり、教会に行けば実際的に役立つか？幸せになれるか？という基準で教会に足を運ぶかを決めると言うことです。人々は目の色を変えて、そのようなものを探し回っています。そのような世の人々に、神様は私たちのこの世の価値観を超越した幸福感で満たして、その姿をもって、伝道できるようにしているのです。初代教会は貧しく、迫害されていましたが、言いようもない幸福感を持っていたので、人々は惹きつけられ、好意を持ったわけです。ですから、私たちの伝道の武器はこの福音による幸福感なのです。それなのに憂鬱で苦悩の日々を送るクリスチャンであるなら、その姿を見た世の人々は絶対に教会に行こうとは思わないはずです。元気で明るい人の周りには人が集まって来ます。みんな元気をもらいたいのです。落ち込んでいる人の所には誰も近づこうとは思いません。私たちはキリストの栄光のために人々が魅力を感じるクリスチャンになりたいですね。「あの人、何で喜んでいるんだろう？問題は山積みなのに」そう言わせたいものです。意気消沈しているクリスチャンはそのような働きをすることはできないのです。</p>
<p>３．自己吟味</p>
<p>① 落ち込む自分の姿を知る</p>
<p>このようなクリスチャンが落ち込む、憂鬱になる場合にジョーンズ師は「自己吟味」のために時間を割こうとしないことを指摘しています。みことばは真理であり、みことばは私たちを自由にします。私たちには世の人々と違って、落ち込み、憂鬱に対して特効薬があるのです。医者が患者を診察して、薬を処方し、治療方法を具体的に指示したとします。患者が家に帰って、その薬も適当に飲んだり飲まなかったり、治療のための具体的指示に従わないなら治りません。聖書は私たちが霊的スランプから立ち上がって、力強く生きるために処方されています。ですから、まず、自分を吟味して、どのみことばを適用するかを注意深く、詳細に学んでいく必要があるのです。<br />
私たちが苦悩し、心が沈んでいるとそれは必ず、表情に表れて来ます。先ほども言ったように隠すことができません。詩篇の著者も自分の表情が暗く、憂いに満ちた顔をしていることを悟っていました。ジョーンズ師はまず自分が人々からどのように見られているのかを知ることが大切だと言いました。そこから問題の解決と解放のステップが始まると言っています。芸能人は人に見られるのが仕事ですから、見栄えにとても気を使います。それでいつまでも若く、好印象を与えるために努力します。その結果、人々を寄りつかせるオーラを放つわけです。逆に体臭、服装、髪型など気にしない人がいます。自分がどう見られているか気にしないので、人に不快を与えていても気にしません。落ち込んで、憂鬱な状態はどれだけ人を不快にし、引き下げるかを知ったならば、どうにかしないといけないと思うはずです。ジョーンズ師は自分を客観的に観察し、「自分が見せている表情や姿がどんなものであるか努めて考えてみよ」と言っています。</p>
<p>② 主の御顔を仰ぐ<br />
「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」詩篇４２篇５節。<br />
詩篇の著者は「御顔の救い」と表現しています。私たちが悩みの渦に巻き込まれた時は、憂鬱な表情になります。しかし、神に向かい、神に触れるなら必ず、その栄光が反映されて輝いてきます。モーセの顔が主と交わったために輝いたように、私たちの顔も輝いてきます。憂鬱な心は必ず顔に現れるように、内面に反映された栄光の輝きは表情に現れます。ですから、仮面をかぶって笑顔を振りまく必要はありませんし、自然と人々を惹きつける表情になります。「御顔の救い」とは私たちの表情が幸福感に満たされた、救いの証明になると言うことです。<br />
４．霊的スランプの一般的な原因</p>
<p>霊的なスランプは様々な要因も重なっていると教えています。ですから、一概にすべてを霊的な問題にはできないことも事実です。ジョーンズ師がいくつかそれを指摘しています。</p>
<p>① 気質</p>
<p>一人一人はみな性格も異なっていて、直面する問題や試練に対して、その性格や気質によって大きく左右されると言うものです。バーレーボールのあるコーチは厳しくすると、逆に奮起して力を発揮する選手もいれば、逆にひどく落ち込んで自信をなくす選手もいるので、選手の性格によって、厳しくしたら、優しく誉めたりしていると言っていました。先天的に陽気な人もいれば、内面を見つめる内気なタイプもいます。そして、霊的スランプに陥りやすい気質の人がいると指摘しています。だからと言って、その人が特別に罪深いと言うことはありませんし、当然、救われていないと言うのでは決してありません。有名な伝道者にも根暗そうな表情をした人や、鬱になる人もいます。逆に内気な気質によって、心を深く洞察するため人間理解が深くなります。作家、哲学者、神学者になる人にはそのような人が多いのです。ジョーンズ師はこのような気質の人たちが自己吟味することは評価しつつも、病的に自分を見つめすぎないように注意を促しています。</p>
<p>② 身体</p>
<p>身体的な不快感が霊的スランプを起こす原因になりうると言っています。病院に勤めていた時に感じましたが、病気の人は心もふさぎ込むし、憂鬱になります。英国の説教者スポルジョンは霊的スランプに陥りやすかったと言われていますが、彼の苦しみの原因の一つは痛風に悩まされていたと言うことです。身体の不健康は心と結びつきます。栄養のある食事と運動は欠かせないですね。</p>
<p>③ 反動</p>
<p>エリヤがバアルの祭司たちに大勝利した後、陥った霊的スランプのようなことを意味します。祭りの後の何とも言えない空しさと言ったらいいでしょうか。週間単位で考えても、日曜日に楽しんだ後の月曜は憂鬱なものです。このような反動がじっさいにありますから、恵まれた、祝福された後は慎重でなければなりません。ただ、予期不安とは違います。</p>
<p>④ 悪魔の策略</p>
<p>これが霊的スランプの究極的原因と言っています。悪魔の最大の目的は人がキリストの救いを受けないで滅びるように仕向けることです。そのためにクリスチャンを抑圧して、落ち込みと憂鬱に閉じ込めてしまいます。そして、世の人にその姿を見せて、「ほら、クリスチャンはこんな顔してるんだぜ。お前もそうなりたいのか？」と語りかけるわけです。詩篇の著者もはじめ、そのような悪魔の策略にはまって落ち込みの中にいました。<br />
いろんな原因を述べましたが、霊的スランプの本当の、一番の原因は、クリスチャンが試練や問題の中で悪魔の攻撃にさらされ、そして、その中で悪魔に同意して不信仰に陥ることであるとジョーンズ師は言っています。抑圧の中で神を忘れてしまう。そのために神の力を知らず、信仰を働かせることを放棄し、神との正しい関係から脱線してしまうと言うことです。その時、その人は悪魔の影響下にさらされ、本人の意図とは違ってはいても、悪魔に聞き従っているのです。</p>
<p>５．自己に私が語りかける</p>
<p>霊的スランプの解決策はこれから数回に渡って学んで行きますが、最初に解決のヒントとしてジョーンズ師が教えているのは「私が自己に語りかける」と言うことです。<br />
「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」詩篇４２篇５節。<br />
信仰生活の幸福感の喪失は、その人の環境ではありませんし、その人を傷つけた誰かでもありません。問題や試練の中で落ち込もうとする自己、嘆く自己、悩み、いじけ、憂鬱になる自己に自分が聞き従っていることが原因だと言っているのです。この意味がわかるでしょうか。人間は生まれながらの罪人です。自己を放置すれば、自己はその罪深い性質に流されて行きます。しかし、私たちはその自己と自分を分離させて意思によって対抗することができます。この著者は絶望している自己に自ら語りかけています。苦悩の中で自分の殻に閉じこもる代わりに自己に「神を待ち望め」そして、神を賛美し、落ち込みを拒否しているのです。<br />
『意味のある信仰生活を送る「秘訣」は自己を制する方法を知ることである。抑圧され、喜びを失った境遇にあって、嘆く代わりに自己と対決し、うなだれる自己を非難し、訓戒し、「神を待ち望め」と自己に私が語りかけなければならない。自己を退け、他の人々の言葉を退け、悪魔とこの世を退け、「わたしはなおも神をほめたたえる」と詩篇の著者のように言うことである。』霊的スランプを克服する大切な要素は、自己、つまり自分の中にいる古い別人格をコントロールする方法を習得することである。失望し、うなだれる自己を放置しないこと、主導権を渡さないことが大切です。古い自己に主導権を渡すならば、いつまでもこのスランプの中で抑圧され続けるのである。私が自らみことばに堅く立って主導権を持つのです。</p>
<p>後悔する人生を送らないために</p>
<p>ホスピス医療の大津秀一医師は何千人もの臨終を見届けました。その大津医師の書いた「死ぬ時に後悔すること２５」という本があります。患者が自分の人生を振り返り、後悔していることを「２５の後悔」にまとめています。その８番目の後悔に「自分の感情に振り回されて生きた」と言うのがあります。ある患者が泣きながら、「私が怒って来たこと、泣いたことは大したものではなかったのです。あれこれ些細なことに怒り、反応して心を惑わされていました。死ぬとわかった今、そのことを冷静に振り返ることができるのです。だから、誰かを妬んだり、恨んだり、うらやんだりするのはバカバカしいとわかりました。」死と言う重大な局面に対峙した時に、どうでもよいことに一喜一憂した自分を後悔しているのです。私たちは死を前にして後悔する必要はありませんね。今から、古い自己の感情に振り回されないように、自己をコントロールする術を学んで行きましょう。<br />
黙想：<br />
１．正直に分かち合うと、あなたは幸福感があるでしょうか。不幸せと感じていますか。人の前ではどんな態度でいますか。幸せな振りをしていたりすることがありますか。<br />
２．あなたは心の中にある悩み、痛みをどう扱っていますか。① ずっと耐えている。② 誰かに聞いてもらってる。③ 怨念晴らしをしている。④ 趣味などで解消している。⑤ 神様に向かって、叫んでいる。<br />
３．これから悩みや問題のただ中で、どう対処していきたいと思いますか。落ち込む自分をセルフコントロールするためにはどうしたらいいと思いますか。</p>
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