プロスタントに属する、私たちの信仰のルーツは16世紀の宗教改革と言えますが、その時に活躍したルター、カルバンは当時の教会が失われた信仰義認、恵みによる救いを教え、聖書の真理に焦点をふたたび当てました。その宗教改革者たちが、このような信仰の復興を成し得たのは、古代教父の記した古典に帰ったために起こったことでもあります。そして、最も影響を受けた教父がアウグスティヌスです。宗教改革者が訴えた聖書の真理は、実はアウグスティヌスが教えたことの焼き直しであることがわかります。アウグスティヌスを知ることは、私たちの信仰のルーツを知ることだと言えます。そして、アウグスティヌスが単に知的な神学者として真理を知りえたのではなく、彼の歩んだ人生を通して、神様より受けた啓示であることがわかります。今回は最大の教父であり、「恩寵博士」と呼ばれるアウグスティヌスを分かち合いたいと思います。
1.アウグスティヌスの生い立ち
紀元354年に北アフリカで生まれます。哲学、弁論術を学ぶ頭の良い少年でした。父パトリキウスは異教徒(死ぬ直前に洗礼を受ける)で、母モニカは熱心(猛烈)なクリスチャンです。アウグスティヌスは母に連れられて、小さい頃から教会に出入りしていましたが、少年の頃、彼の疑問は、「愛の神がいるのに、なぜ、この世界には悪がはびこるのか?」ということでした。教会に不信を持ち始めた彼は、19歳の頃、マニ教に入信します。マニ教はグノーシス主義に基づいて、聖書、ゾロアスター教などの教えを混ぜた混同宗教です。アウグスティヌスはマニ教徒として、クリスチャンに逆伝道していました。その間に、彼はある女性と同棲生活をして、息子アデオダトゥスも生まれました。学者の中では、この同棲を堕落と捉える人もいますが、この女性の身分が低かったために、結婚できなかったわけで、アウグスティヌスはこの女性を深く愛していたようで、事実婚だとも言えます。その証拠にその後、15年間、彼女と一緒に生活をしています。マニ教に熱を入れたり、身分の低い女性を好きになったり、アウグスティヌスの行動には、母モニカに対する反抗心があるのではないかと推測します。母親の自分自身に対する愛情と干渉に対して、依存と反発のアンビバレンツ(相反)的な感情の表れが、母親を困らせる行動を取ってみせることに現れている気がします。
学者として才能が認められたアウグスティヌスは、383年にローマ、そして、ミラノへと渡ります。その時に同棲していた女性と息子を呼び寄せています。なぜか母親モニカもストーカーのようについて来ています。モニカは信仰から離れた息子に心を痛めて、主に立ち返るようにいつも祈っていました。もともと、彼女の祈りの内容は、息子がローマに行かないようにすることでした。刺激と誘惑の多いローマに行っては、ますます信仰から離れると考えたからです。しかし、その願いはかなえられず、アウグスティヌスはローマに行きました(それが良かった)。しかし、神の計画は人の願いとは違って偉大なものです。ローマでアウグスティヌスはミラノの司教アンブロシウスと運命的な出会いをして、その指導の下で、回心を経験します。
話が前後しますが、このミラノ滞在中に、アウグスティヌスは同棲していた女性と縁を切ります。才能豊かな彼は頭角を現して、学者として認められて行きます。しかし、当時の社会では身分の低い女性を帯同することは、出世には大きな足かせになりました。彼は愛する女性を取るか、出世を取るかで悩みます。周りの強い勧め(とくにモニカ)もあって、結局、女性と別れることを選びます。その女性は「私は生涯、結婚しません。」とアウグスティヌスに誓って、いさぎよく身を引きました。故郷に帰って修道院に入り、神様に残りの生涯をささげたと言われています。とても健気で、心の美しい女性だと言うのがわかります。アウグスティヌスのために純潔を誓ったその女性とは対照的に、一人になったアウグスティヌスは自分の性欲を抑えられず、また、別の女性と関係を持ってしまいます。出世のために愛する者を捨てる自分、性欲に身を任せる自分。この世界の悪が現実に自分の中にも存在することを知って、ますます絶望します。自分の罪深さを自覚したその頃に、アンブロシウスの説教を聞いて、回心します。アウグスティヌスの回心にはアンブロシウスの導きがありましたが、その背後に母モニカの祈りがありました。教会に来て、あまりにも熱心に泣きながら祈るモニカの姿を見たアンブロシウスは「涙の子は決して滅びることはない」と言ったと言われています。息子の人生に干渉するうるさいママゴンではありますが、一方では涙の祈りをささげ続けて、偉大な神学者を育てた母として、カトリックでは聖人となっています。
アンブロシウスを含めた他の有名な教父は貴族生まれで恵まれた環境で教養を培いました。それに比べて、アウグスティヌスは、他の教父ほど身分は高いわけではなく、教養を身につけるために環境はそれほどよくはありませんでした。当時の知識人が当然のように身につけていたとされるギリシャ語もできなかったようで、神学者としての素地はよくありませんでした。それでも、彼が偉大な神学者に成りえたのは、研究以上に、自らの人生経験に追う所が大きいと言えます。
2.アウグスティヌスの教え
① 三位一体
ニカイア会議で三位一体の教理は共通の理解すべき教理だと確認できました。三位一体はテルトゥリアヌスなどによって、三位一体の教理についてまとめられて行きましたが、さらに、アウグスティヌスによって体系的な三位一体の教理が確立されて行きました。現代の神学で教える三位一体もアウグスティヌスの著作が基本になっています。
「ある日、アウグスティヌスが砂浜を散歩していると、一人の少年が砂浜を掘り起こしていた。『坊や、そこで何をしているんだ?』少年は、『穴ぼこを掘って、海の水を全部、その穴の中に入れるんだ』それを聞いたアウグスティヌスは『こんな小さな穴ぼこに、あの大きな海を入れることは無理だよ』少年はアウグスティヌスを見つめて言った。『三位一体のわけを人間の理屈でわかろうとすることに比べれば、大海の水を砂の穴に入れることのほうが、ずっとやさしいよ』そして、その子どもの姿は消えていった。」これは、アウグスティヌスが本当に体験したと証言している話です。
② 善戦
戦争にも、やもえない善戦があると主張しました。
③ 幼児洗礼
幼児洗礼を受けることで、原罪(その時までに持っている罪)を洗い流すことができると教えました。それで、カトリックは幼児洗礼をします。また、改革派、長老派などもアウグスティヌスの影響で、幼児洗礼を授けます。これはユダヤ人に対する割礼と同じだと教えます。
④ 煉獄
死後に自分の犯した罪で汚れた魂を浄化する天国と地獄の中間のような場所があると主張しました。それがカトリックの煉獄の教理に発展しました。
⑤ 比喩的解釈
聖書(とくに旧約)の表現を字義通りに解釈しないで、比喩的解釈をする立場でした。これはオリゲネスという人も主張しました。遡ればギリシャ哲学の影響があります。彼は天地創造も7日と言うのは比喩であって、文字通り7日というのではない、と主張します。しかし、アダムとエバの創造と堕落はそのまま信じたり、ノアの時代の洪水も事実、あったと言います。ある部分は比喩的、ある部分は字義通りと主観の入った解釈だと言えます。
3.ペラギウス論争
アウグスティヌスの晩年に生じた有名な出来事が、ペラギウス論争です。アウグスティヌスは死ぬ直前まで、この論争に明け暮れました。それは真理を死守すべき霊的な闘争でもありました。この論争で主張されたことが、後の宗教改革の精神に継承されたのです。では、まず、論争を展開した相手のペラギウスとはどんな人でしょうか。
① ペラギウスという人物
現在のイギリス出身で、その後、ローマに渡り、修道士として活躍していたとされています。しかし、その頃、蛮族の侵入によってローマ帝国は危機に瀕していました。難を逃れるために、ペラギウスはアウグスティヌス(すでにローマから帰郷していた)のいる北アフリカのカルタゴ(現チュニジア)に移りました。初めお互いに好意を寄せ合っていたようですが、ある時、アウグスティヌスの著作の「告白」が朗読されている時、「あなたの欲することを命じてください」という言葉が耳障りにペラギウスにはに聞こえました。それ以来、ペラギウスはアウグスティヌスを攻撃するようになります。
② 二人の主張
(1)アウグスティヌスの主張
人間には生まれながらに、アダムから受け継いだ原罪を有している(産まれたての赤子も罪人)。自由意志を与えられてはいるが、その意思は罪へと向かう傾向を持ち、神の命令に逆らうことを選んでしまう。全的堕落を主張します。それゆえ、人間は全く新しく生まれ変わる必要があり、そのためには、神の側の行為が不可欠となる。その部分に関して、人間は受動的であり、絶対的恵みが必要である。そして、神は救う人を選んでいると主張しました。
(2)ペラギウスの主張
生まれた時の人間は真っ白な画用紙のようなもので無垢な存在である(原罪の否定)。神の人間に対する良き贈り物は、人間の本性と自由意志である。それによって、罪に抵抗して、神に従うことができる、自由意志を訓練することで、罪のない生活に入ることができる。じっさいそういう人たちが存在する。人間が罪を犯すのは原罪のせいではなく、悪いことを実践したからである。
③ 二人の神学になる背景
神学はその人の心が作るものだと言えます。その人の経験、神との歩みが神学を形作ります。私は、神学は心理学のようなものだと考えています。その神学を形成した二人の背景を比べて見ます。
(1)アウグスティヌスの背景
最初に説明したように、彼の人生は紆余曲折で、神に背を向ける放蕩生活を経験し、性欲にも打ち勝てない弱さを、身を持って知った人です。そのような罪の絶望から恵みによって救われたと言う確信がありました。それが彼の神学の土台です。女性に依存しなければ生きて生けない弱さがあり、重要な決断の時は人の意見を採用したり、どっちかと言うと受身で弱い性格の人です。そんな弱さを神によって強くされて、大神学者に成長した人だと言えます。
(2)ペラギウスの背景
修道士であったと言われていますから、神学者と言うより道徳家と言えます。彼は一言で言えば人格者です。育ちも良く、表面的に見れば、非の打ち所がない立派な人でした。説教も上手で、見た目も人を惹きつけるカリスマ性を持っていました。修道院で精神修養を重ねて、多くの徳を身につけており、尊敬できる人物であったようです。彼は自分の目から見れば、自分は日々、進歩しているように思えて、よりよい生活を営んでいると考えています。それは自己との戦い、努力、意思力がそのように至らせたと満足していました。彼には恥ずべき秘密がありませんでした。その満足が彼の神学を形成しました。彼は自己矛盾を経験することなく、その高い道徳性の奥に隠れた心の闇を覗くことはしませんでした。神のみことばで心を耕すことはしないで、自分の目に良いと思う善を行って、それが守れたらそれで満足しました。自分で自分の人生を作り上げ、人生は自分でコントロールできるもの、思い通りになるものと考えたのです。その自己満足ゆえ、アウグスティヌスが到達した神と人間の深みを知らなかったのです。彼の書いたパウロの手紙の注解を読めば、彼が表面的にしか聖書を読んでいないことがよくわかります。
④ 論争の結果
ペラギウスはその後、カルタゴを去りますが、彼には多くの支持者がいて、彼の弟子がその後も論争を繰り広げます。しかし、教会はペラギウスとその支持者たちを異端と宣言しました。しかし、それは原罪と神の恵みを否定することに対して異端としたわけで、人間の自由意志に対しての議論はずっと続きます。つまり、人間は自由意志で良いものを選ぶ能力があると言う考えです。そして、これは現代まで存続します。また神の恵みと人間の努力を両立させた半ペラギウス主義(アルミニウス派)も登場しました。それ自体は異端とされましたが、それに近い神学は存続しています。
4.まとめ
歴史の中でペラギウス主義論争がありましたが、この論争は絶えずどこでも存在するものなのです。ユダヤ教主義クリスチャンから始まって、現代に至るまで、自分の行いによって神に近づこうとする、人間の本性があるかぎり、どこにでもこの教えがはびこります。「異端の歴史」を書いた、D・クリスティ・マーレーは、ペラギウス主義よりも、半ペラギウス主義の方が危険で、クリスチャンを惹きつけると言っています。クリスチャンは神の恵みは必要だとみんな感じています。自分は罪人だとも自覚しています。しかし、そのような理解がありながら、自分の力を頼りに、生きようと努力するのです。マーレー氏は「生涯変化することのないキリスト教徒」は、この半ペラギウス主義によって生き続けると言っています。「変えられ続ける人は、自分の意思は無力であり、罪と個人的な欠点の克服は神によって始められ、イエス・キリストを通じて外から与えられるのでなくては実現しないことを痛感するが、精神的小市民層にとっては、これは事実ではないからである。彼らは深刻な内面の葛藤を知らないし、悔い改めという危機の経験の後に訪れる溢れるような勝利の感情、あるいは罪の重荷と罪の引きずり込むような暴力的な力からの解放を知らない。彼らは自分の努力による進歩や進歩の遅れ、自己鍛錬とその不足はよく自覚する。このような信者にとっては、人間は自分自身の努力と神の助けによって善い生活を送れるようになると信じているのである。」
自分の心からペラギウス主義を追い出しましょう。自分の心を深く探り、絶望とともに神の深い愛と救いを知る者こそ、恵みに生きる生涯に入ります。そこから始まる行いだけがきよいものとされるのです。