霊的スランプに学ぶ

ロイド・ジョーンズ:霊的スランプから学ぶ
第4回:知性・感情・意思

プロのテニス選手はみんな利き腕だけが極端に太いです。それは利き腕にラケットをもって集中的にプレーするからです。見た目にはアンバランスです。昔はよく「専門バカ」と言う言葉を使いました。クイズ番組に出たある有名私立大の教授は西洋史では日本で有数の専門家でしたが、クイズで出題される一般常識問題にとんでもない答えを出して視聴者を大笑いさせました。自分の専門分野以外はからっきし無知なのです。私たちの人生はバランスが大切です。信仰もバランスが大切です。ある部分が成長して、ある部分が未熟というのは不健全な信仰と言えます。バランスの取れた信仰とはどういったものでしょうか。

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1章で霊的スランプを脱することは急務であり、重要であること、そして、その基礎として2章では信仰義認について学びました。そして、今回の3章で次のステップの学びに入ります。テキストになるのが、以下のマルコの福音書にある盲人の目が開かれる箇所です。

「彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。 それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」と言われた。」マルコ8章22-26節。


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J師は霊的スランプを克服する必要がある主に2つの理由について語っています。1つ目は本人のためにと言うことです。霊的スランプに陥って、落ち込むクリスチャンとして生きていると、それは本人にとってとても辛いことです。聖書には勝利者としてのクリスチャンが描かれており、主イエスの御名で悪魔を制し、この世を救う使命があります。それなのに、敗北者かのようにうなだれている。これほど矛盾した状態はありません。政治家、医者などの地位にある人は普通の人より、より高い基準でその振る舞いを見られています。それは宿命です。クリスチャンも世の人から当然、素晴らしい生き方をする人たちだろうと見られています。それなのに敗北感いっぱいの自分は耐えられるものではありません。2つ目に、世の人々のためにと言うことです。初代教会ではクリスチャンは証人という生き様がありました。それは自分の生き方を通して、キリストを証しすると言うことです。これは日本人がイメージする品行方正の清く、正しいクリスチャン像は聖書的ではありません。聖書的なクリスチャンとは、逆境にあって、倒れそうで倒れない、どんな境遇でも喜びと感謝を失わない。自分は弱くても、イエス様によって強くされているという確信のもとに生きると言う生き方です。見た目は普通で、むしろ弱そうに見えるのです。しかし、世の人とは土台が違うのです。

 「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」Ⅱコリント6章9,10.

 

 

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20世紀最高の説教家と言われるロイド・ジョーンズ師の格調高いメッセージは今でも続々、翻訳が出ていて、牧師、信徒両方に人気があります。その中でも名著と呼ばれる「霊的スランプ」をテキストに学んでみたいと思います。この本の主張を取り上げ、私たち自身で消化し、適用して行きましょう。聖書は詩篇42,43篇を取り上げています。とくに42篇をはじめに読んで、黙想してみましょう。

1.霊感された詩篇

詩篇は人間の赤裸々な感情、思い、うめきが綴られています。きれいごとではなく、人間が現実に直面する様々な苦悩、痛みを正直に表現されています。 詳細はこちら