聖書人物伝:新約⑩12弟子のトマス・ピリポ
12弟子の中で、イエス様が一番育てるのに苦労した人誰かと質問されれば、私はきっと、トマスとピリポではないかと考えています。この二人を信仰によって歩むように育てるというのは、並大抵のことではないのがわかります。しかし、また、この二人も信仰の人になったと言う事実は、なかなか信仰が成長しない者でも変えられるという希望を与えます。そんなトマスとピリポの二人の人物を学んでみたいと思います。
1.トマス・ピリポの特徴
① 生い立ち
(1)ピリポ
ピリポはペテロたちと同じガリラヤのベツサイダ出身です。きっと、ペテロたちを昔から知る友人であったと思います。ベツサイダは漁業の町ですから、彼も漁師だった可能性が高いです。
「ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
」ヨハネ1:44.
また、ピリポ以外の弟子たちがみな、ユダヤ的な名前であるのに対して、ピリポだけはギリシャ文化にある名前です。このことから、ピリポの父親は進歩的な人か、国際感覚のあるエリートであると言えます。じっさいにあるギリシア人がイエス様に近づいた時、世話をしたのがピリポでした(ヨハネ12:20~)。
(2)トマス
トマスについては、4つの福音書のうち、ヨハネだけにしか出てきません。ヨハネの仲が良かったのかもしれません。ヨハネは「デドモと呼ばれるトマス(ヨハネ20:24)」と紹介しています。「デドモ」とは「双子」という意味で、トマスは双子であったという説がありますが、確証はありません。
② 献身
トマスの招きはありませんが、ピリポへの招きは聖書に書いてあります。
「イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて『わたしに従って来なさい。』
と言われた。」ヨハネ1:43.
③ 性格
(1)分析家(ピリポ)
トマスもそうですが、とくにピリポは物事についてよく考える人です。イエス様に招かれてすぐ、彼はナタナエルに伝道しました。
「彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
ヨハネ1:45.
この言葉の内容から、彼はイエス様について、十分調べ、納得してから従っていることがわかります。疑うナタナエルに「来て、そして、見なさい」と自分で会って、検証するように勧めています。当時はローマ帝国の支配ですが、文化、知性においてはギリシャが秀でていました。ピリポも父の影響で、勉強家であったのでしょう。
しかし、その知識が信仰を妨げることもあります。ある時、群衆が空腹なのを見て、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 とイエス様はピリポに相談しました。ピリポの信仰を試す訓練の時と言えます。すると、ピリポは、「ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
まったくをもって、現実的で、正確に計算された答えをしました。彼にはイエス様を計算に入れることがありませんでした。聖書をよく学んで考えることは大切ですが、ある時は、考えを超えて、単純に「アーメン」と信じることも大切です。
(2)否定的(トマス)
指導者たちとイエス様の関係が悪化して、指導者たちに殺害の計画さえ耳にした時、イエス様はもっとも危険なエルサレムに行こうと言いだしました。弟子たちはみな口々に反対しました。しかし、トマスはそんな中、以外な言葉を発します。
「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」 ヨハネ11:16.
これは何と頼もしい、信仰の言葉でしょうか。と言いたいところですが、原文を見るとニュアンスが違います。これは投げやりで、批判的、否定的な態度です。「どんなに俺たちが言ったって、聞きはしないのさ。どうせ、俺たちはいつか死ぬんだ。行くしかないだろう。」このような、イエス様に間接的な批判を加えたような言葉なのです。「こんなことやっても、人は救われないよ。」とか、恨みがましく、不平をつぶやく、粘液質の人です。
「彼ら(ヨハネとマルコ)は言った。『あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。』」マルコ10:37
それを聞いた弟子たちは激怒したようです。彼らの野心は弟子たちの関係も悪くしました。
(3)霊的なものに疎い(二人)
イエス様がある時、御国の話をしました
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。・・・わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」」 ヨハネ14:1-4.
すると、トマスが答えます。「トマスはイエスに言った。『主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。』」5節
トマスにとって、自分が確認でき、納得する世界しか認めることができません。だから、霊的な話しをして、自分がわからないと、すぐ反論が始まります。そして、その後、同じ気質をもったピリポとイエス様との会話が続きます。
「・・・今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」7節。父なる神とイエス様が一つである神秘を語った時に、ピリポは「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」8節。
それを聞いたイエス様はあきれたように、ご自分と父なる神が一つだということを伝えます。ラジオを聴きたい場合、自分で周波数を聴きたい局に合わせなければ聴くことはできません。トマスとピリポはその逆で、自分たちに合わせるようにイエス様を仕向けています。みことばを理解できない時、黙想して、イエス様に合わせよとすることはしないで、自分の思考の中に、真理を納めようとします。こういう人が霊的に成長するには、大きな壁を壊す必要があります。
(4)疑い深い(二人)
トマスだけが不在の時に、復活のイエス様が現れました。イエス様に会えなかったトマスは「しかし、トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。』と言った。」と、頑なになってしまいました。
さらにマタイの福音書では、もっと頑なな話が書かれています。
「しかし、11人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」 マタイ28:16-17.
トマスは見ることができなかったので、疑ったが、ある者と言われた弟子はイエス様を目の前にして、疑っています。この弟子が誰かはわかりませんが、もしかしたらピリポかもしれません。
2.服従する信仰へ
トマスは一人復活の主に会えなかったことで、頑なに復活を信じませんでした。しかし、そのようなトマスに主は現れてくださって、彼の希望通りにしてくれました。
「それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
ヨハネ20:27.
自分の不信仰に心を痛めたトマスは、その場ですぐに悔い改めて、信仰告白をしています。
「トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」」28節。
3.晩年
トマスは外典の「トマス福音書」があります。彼はインドに渡り、そこで教会を開拓し、殉教しました。彼は両手両足を切り取られる壮絶な死を遂げました。彼はインドでは「ダマ」と呼ばれて、尊敬されています。日本で有名な「達磨」は殉教者トマスが達磨大師の原型とされて、仏教の中で広がったとされています。
黙想と適用:
1.あらゆる問題に直面しても、現実的な計算で絶望せずに、イエス様を加えて、考えてみよう。
2.みことばを学ぶ時は、自分にみことばを合わせようとすることはやめよう。「主を教えてください。悟りを与えてください」とへりくだる心で求めよう。
3.疑う者にならないで、見ないで信じる者になろう。見ないで信じる者は神の栄光を見ることになります。