聖書人物伝:新約 2 主の母マリヤ

1.マリヤの家柄
「この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤと言った。」
(ルカ1:27)

マリヤは、ダビデの家系から出た女性でした。それは、ダビデ契約(Ⅱ列王7:4-17)によって、彼の子孫から救い主が生まれるという約束があったためでした。さらに家系の根源をたどれば、エバに約束された創世記3章15節にある「女の子孫」として選ばれたのです。それで、ガブリエルは「おめでとう。恵まれた方」と声をかけたのです。宝くじが当たった程度のものではありません。この選びは、まさに神の主権で、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」ローマ9:15。と言われたように、一方的な恵みだったのです。

マリヤは、まだ、いいなずけの処女でした。ユダヤ人の社会では、結婚に3つの段階があります。最初に、両親たちが同意して、将来、結婚するように定めます。それは、5歳とか、6歳とかいう、非常に小さいときに行われます。けれども、次に、実際の婚約を、結婚の1年前にします。これは、結婚と同じような法的な力がありました。ここで婚約を破棄すれば、離婚届を出さなければいけなくなり、他の人と子どもが出来たことが発覚したら、姦淫の罪で右打ちにされます。マリヤは、この婚約の時にいたのです。彼女は、おそらく13歳か14歳であったと言われています。

2.マリヤの性格

① 芯が強い女性
「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。」(ルカ1:28-29)

マリヤは神の使いを見た時、とまどい、怖がっているようですが、それは奇抜なガブリエルの姿に戸惑った感じです。ですから、いたって冷静に返答しています。神(御使い)に出会った聖徒は(イザヤ、エゼキエル、ダニエル、使徒ヨハネ、先週のザカリヤ)みな、死人のようになったり、倒れたり、気絶したりと、まともな対応はできていません。しかし、マリヤは落ち着いており、少しも取り乱した様子がありません。彼女はいたって気丈な、芯が強い女性と言えます。

② 謙遜な女性
マリヤはこのような歴史上類を見ない祝福を受ける約束を聞いて、喜んだと言うよりは、自分が卑しい女であることを告白しています。

「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」(ルカ1:48)
「低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」(ルカ1:53)

自分に、そのような祝福を受ける資格などないと理解していたので、自分を主のはしためだと告白しています。謙遜とは真の自分の姿を知ることです。

③ 信仰の女性

処女である自分が、子供を授かるとガブリエルに告げられます。マリヤは単純に疑問を投げかけます。

「そこでマリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(マタイ1:34)

これは、ザカリヤと違い不信仰の言葉ではありません。もし、そうなるのなら、それがどのような起こるのか?という、そのプロセスへの疑問(how to)なのです。それに対して、ガブリエルが聖霊によって身ごもると言っています。それに対してマリヤは。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)

自分がはしためだと言い、みことばに何の反論もしません。ザカリヤが信じなかったこととは対照的です。聖霊によって身ごもるとは、かつてなかった奇蹟であり、ある意味、アブラハムの信仰以上に試されるみことばです。マリヤの態度は究極の信仰の姿と言えます。アブラハムは老いた体に子を与える約束を信じました。ノアは洪水の警告を受けて、海のない山で箱舟を作って神を信じました。そして、マリヤは処女が聖霊によって身ごもる約束を信じました。このように、信仰の人は、自分の頭で納得できないことを、無条件で信じました。このようなマリヤの信仰を、エリサベツは賞賛して言います。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)

④ 思慮深い女性
彼女はメシアであるイエス様を子にするという特殊な人生を送りました。それゆえ、普通の子供とは違うイエス様の振る舞い、言動に何度もとまどうことがありました。しかし、そのたびにそれを黙想し、すべて心にとめていました。

「それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」(ルカ2:19)

「それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(ルカ2:51-52)
信仰の成熟度を量るとするなら、それはその人の人生において、自分が理解できない、コントロールできない状況にあって、どんな態度を取るかです。なぜ、占いがはやるのでしょうか?それは状況を手軽に把握したいという思いからです。人生は他人任せにできるほど、そんな単純ではありません。そんな状況で、一つ一つの出来事などをみことばに照らし合わせて心にとめていきます。そして、祈りと黙想により心を豊かにし、いろんなことを学び、経験し、自分を磨いて、そこから開かれる答というものがあります。それを悟るには忍耐と思慮深さが求められます。すぐ答えを知りたがる人は、そういった作業をしようとしません。マリヤにはそのような思慮深さがあります。そして、彼女の賛歌を読んでみると、旧約聖書の熟知と理解が垣間見えます(ルカ1:45-55)。

3.葛藤するマリヤの人生

① 約束が臨むことによる葛藤
神殿で赤子のイエス様を見たシメオンは、イエス様への預言を含めて、マリヤの人生を象徴する預言をします。

「シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの者が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」(ルカ2:34)
イエスが異邦人にとって光となる一方で、肝心なイスラエル人の多くが彼に反対します。そして、そのイエス様のメシアとしての戦いの人生が、マリヤの心をも突き刺すことを言っています。

「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるからです。」(ルカ2:35)

マリヤはガブリエルからの約束を受け止めて、神を賛美して喜びましたが、それからすぐ、イエス様をお腹に宿した時から苦しみが始まりました。ヨセフといういいなずけがいて、婚約中の身でお腹が大きくなるのですから、それは石打ちの刑もありえる恐ろしい状況です。人々からの噂、視線、軽蔑を耐えなければいけませんでした。誕生以後も、メシアゆえの少年イエスに振り回されて苦労します(ルカ2:41-45)。イエス様が公生涯を歩まれてからも、人から受け入れられないメシアとしての道を行く我が子を前に肉の母としての情ゆえ葛藤します。そして、最後は十字架で死ぬ我が子としてのイエス様を見届ける悲しみを体験します。

「おめでとう。恵まれた方」と言われたマリヤには、イエス様を引き受けたゆえの苦難が襲ってきました。クリスチャンになること、神の祝福を受けることを、現世利益程度にしか考えない人にとっては、そのような出来事の一つ一つを理解できず、不信仰に陥ってしまいます。神様に自分の身をゆだねる人生は、決して、自分の考えや常識で判断すべきものではないし、思い通りになる人生ではありません。しかし、そんな状況でも確かに主は働いており、マリヤを幸いな人として扱い、祝福へと運んでいるのです。イエス様が十字架と復活を通られたように、私たちも主にある喜びと苦難も甘受するようになるのです。

「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」(ピリピ1:29)

4.使命を果たし安息に入る

マリヤもイエス様に対して、肉の母としての立場と、メシアとすることへの狭間で葛藤していました。それゆえ、最初は弟子たちの集団に加わることはしませんでした(マルコ3:32)。しかし、十字架の前後で、イエス様をメシアとしてつき従っています(ヨハネ19:25)。イエス様にある人が「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。(ルカ11:27)」とマリヤを間接的に讃えました。しかし、イエス様は「しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。(28節)」 と訂正しました。マリヤはそのような肉のつながりで満足し、とどまっていましたが、やがて、自分を明け渡して、イエス様が言うように、みことばに聞き従う仲間へ加わりました。

マリヤはイエス様を育てて、肉の母の立場から、自らも身を低くしてメシアであるイエス様を個人的に受け入れることで、自らの大役を終えて、安息に入りました。その波乱万丈な人生でしたが、その謙遜と忍耐は、どれだけ天において賞賛されているでしょう。

マリヤは初代教会時代は一度も出てきていません。たぶん、「メシアの母」と紹介され、特別視されることを嫌い、目立たない晩年を送ったと思います。カトリック教会で礼拝、祈りを受ける対象となった自分を、マリヤはどのように見つめているでしょうか。

黙想と適用:

1.自分は本来、祝福を受ける資格のない、主のはしためであるという態度があるでしょうか。

2.神のみことばには、自分の考え、常識などを捨てて、無条件で服従する態度が必要です。

3.人生のあらゆる場面で、すぐ答えを求めるのではなく、みことばを黙想しながら、探究し、成熟をめざしているでしょうか。

4.「恵まれた方」を安易に現世利益のようなものと考えないようにしましょう。主の主権の中で祝福が私たちに臨みます。それは時には喜ばしいことには見えない中にも主が働いていることを認めていかなければいけません。

5.私たちも人の賞賛を超えて、神のみことばに従う道を歩む決断をする必要があります。その道が神に喜ばれ、安息に入る道です。