聖書人物伝:新約 3 シメオン・アンナ

1.生い立ち、家柄
シメオンについては、何の記述もないのでどこの出なのかわかりません。シメオンの祈りの内容から、老人だと思われます。アンナに関してはアセル族出身パヌエルの娘だと紹介されています。アセル族とは、滅びた北イスラエルの出身の部族です。ヤロブアム王が金の子牛礼拝を行ったために、信仰の純潔を求めて、南ユダに移った人たちがいます。その子孫である可能性があります。
「この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと7年間、夫とともに住み、その後やもめになり、84歳になっていた。」ルカ2:37.

その頃は13,4歳には結婚すると言われていますので、20歳前後には、アンナはやもめになり、60年以上もそのような生活をしていたことになります。戦後が65年だと考えると、すごい年月です。

2.シメオン・アンナの性格

① シメオン

「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」ルカ2:25-26.

シメオンはザカリヤ同様に正しい、敬虔な人でした。この時代にはめずらしい信仰の人なのです。そして、シメオンの信仰の象徴的言葉は「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」です。その当時、イスラエル人が切に求めていたのは、ローマからの解放で、そのための軍事的力、指導者が求められていました。彼らが求めていたメシアとはそのような解放する力を持った者でした。現代のクリスチャンが繁栄、祝福、力を求めることと同じ体質です。しかし、シメオンは力ではなく、「慰められること」を求めていたのです。シメオンが描いていた救いとは、イスラエルがへりくだり、自分の罪に涙して、いやされ、心から神をお迎えすること。それが慰められることでした。人間に本当に必要なものを知っている柔和な人だと言えます。

② アンナ

アンナは60年以上やもめとして生活したと言いましたが、その生活がこのように紹介されています。「そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。」。彼女は今でいう修道女みたいな、神に全生涯、時間をささげる人でした。やもめとして孤独と寂しさがなかったのでしょうか?しかし、彼女には、そのような寂しい感情を、人間的慰めを受けて満足できる人ではありませんでした。アンナは神一筋に心を向けて、それ以外の娯楽、グルメ、人的交流などには関心がなかった人のようです。

3.シメオン・アンナの信仰

① シメオン

二人は神殿にいました。その事実だけで、神を思う熱心があったわけです。二人に共通することですが、まだ赤ちゃんであるイエス様のことを、メシアだとわかりました。その理由は、「聖霊が彼の上にとどまっておられた。」とあります。ペンテコステの前ですので、聖霊は人の心に住むことはありませんでしたが、敬虔な者の上にとどまって、その者を導く働きをペンテコステ前にも行っていました。その聖霊とシメオンは深い交わりがありました。彼は「また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。」と聖霊との交わりでそのことを告げられており、その約束のメシアを「彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、」とあるように、イエス様との出会いを導いてくださいました。

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」マタイ5:6.

シメオンのようにメシアを求める者には、聖霊が導かれて、出会わせてくださるのです。また、シメオンの預言には、イエス様の宣教の状況が見えていました。

「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの者が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」ルカ2:37.

ほとんどの宗教指導者は、神を信じ、聖書を指導していると自負していながら、じっさいのイエス様が来たら、敵対し、殺してしまいました。イエス様が人の心に臨むということは、神と対立する思考、態度、行動すべてにおいて放棄しなければいけません。そういうことを考えたら、メシアは人々が快くお迎えするお方でないことがわかります。イエス様への人々の背きゆえに、イエス様は苦しめられ、その姿をマリヤは心刺される思いで、見守らなければならないことも預言しました。シメオンには写真を見るように、すべてが見えていました。

「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」ルカ2:32.

シメオンはイエス様の救いが、「万民の前に」と言っています。これは驚くべき発言です。イエス様の弟子たちでさえ、救いはユダヤ人のためだとずっと思っていて、彼らの思考を変えるのに苦労しているのが使徒の働きを読めばわかります。しかし、シメオンはこの時点で、メシアとはイスラエルに限定される小さなお方ではなく、全世界の救い主であることを語ったのです。この霊的識別力には驚かされます。マリヤとヨセフも「父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた」33節。と反応しています。

② アンナ

アンナは神殿で神に仕える、女預言者でした。その時代はどの国であっても、男尊女卑の時代です。どんなに優秀であっても、賜物が優れても、差別の下で用いられることはほとんどありませんでした。そんな時代にアンナは預言者として立てられました。シメオン同様、幼子のイエス様に出会いました。

「ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの願いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。」ルカ2:38.

彼女は、メシアに出会った喜びを出会ったすべての人に宣べ伝えました。これは、性別関係なく、福音によって変えられた者には宣教の使命が与えられ、女性であってもみことばを語り、用いられることを暗示しています。沖縄では女性牧師が大きく用いられていることからも、それが証明されています。さあ、女性たちよ、立ち上がれ。

4.シメオンとアンナの満足

「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」ルカ2:29.

この言葉から、どれだけイエス様に出会えたことが嬉しいかがわかります。霊的な深い洞察を持っていたシメオンにとって、周りのうわべだけの信仰に嘆いていたでしょう。そして、本物であるメシア到来を待望し、祈り続けていたのです。そして、聖霊の導きによって、約束のイエス様に出会いました。上記の言葉を別の表現で勝手に言い表すと、「もう満足です。これで死んでもいいです。」となるでしょう。彼には人生に思い残すことはもうありませんでした。これはシメオンが老人だから言える言葉のようですが、私たちの人生の意味を考えた時、すべての者に当てはまる言葉ではないでしょうか。人間にとって、最も大切なことは、メシアに出会うことです。メシアと出会うことが、人が人として意味を成すのです。すべての人間は救いを求める求道者であり、ゴールはメシアに出会うことです。そして、イエス様に出会ったら、本当の満足があり、もう、何もいらなくなります。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまたです。」ピリピ1:21.

もう、死んだとしても天国で安息だし、生きていたとしても、それには神の計画があり、もう後は神の御手にある幸いな時間なのです。人生がこのまま終わってもいいのですが、それでも、主が私たちを生かしてくださるのは、おまけの人生と言ったらいいでしょうか。イエス様との出会いによって、受けた心の満足を人々に分けていく。この幸いな出会いを人々に紹介していくことです。

アンナも、イエス様に出会った後、最後の使命を果たすかのように、人々へ希望を証ししました。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ヨハネ17:3.

イエス様を知ることで、心に大きな満足が与えられます。当然、私たちの頭では、イエス様のすべてを理解することは不可能です。ですから、私たちは生涯かけて、イエス様を知ることを追求するのです。イエス様がいのちであり、永遠です。私たちはイエス様を知ることで、永遠のつながりの中に生きることができます。地上で起こる出来事の一つ一つに振り回されずにすみます。普通、料理でも、お腹いっぱい食べたら、もう入らないということで、食べたいと思わないでしょう。私たちの満足は、それとは違います。私たちの心に満足を与えた主は、満足の上にさらに満足を与えられるお方です。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」ヨハネ1:16.

恵みを受けたのに、恵みをこれでもか、これでもかと注ぐお方です。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント3:18.

私たちは主の栄光を受けた存在ですが、そこで立ち止まらず、さらに栄光を与え、栄光を渡って生きる存在です。私たちはシメオンとアンナのように老人ではありませんから、まだ、地上の生涯が彼らより残っています(たぶん)。ですから、天に挙げられるその日まで、イエス様を知ることに心を注ぎ、恵みを受け、その恵みを告げ知らせる者となりましょう。

黙想と適用:

1.シメオンは霊的深い洞察力を持っていました。しかし、彼には聖霊がその上に臨んでいましたが、私たちは、心に入って、住んでくださるという特権に預かっています。その特権を感謝して、さらに霊的な識別力を磨きましょう。

2.シメオンがイスラエルが慰められることを願っていたように、日本、沖縄の人々の真の慰めであるイエス様に出会えるように祈り、宣教して行きましょう。

3.福音は女性だけではなく、すべての者を立たせて、用います。弱い者を大きく用いること、それが、主の計画です。自分の能力に目をとめてはいけません。主によって大胆になろう。

4.イエス様に出会った人生は満足の人生。残りはおまけのようなもの。そのおまけにも恵みが増し加わります。イエス様を知ることに集中していきましょう。