ブロードウェイのカテドラル・セント・ジョーンズ大聖堂に、シモン・ペテロの立派な石造があるそうです。手に天国の鍵をしっかり握りながらも、表情はなぜか当惑気味です。なぜなら、足元でにわとりが一緒にいるからです。栄光と挫折の両面を併せ持つペテロ。ガリラヤという田舎の漁師が、やがて大使徒と呼ばれる器に変えられるプロセスの中に、どのように主が働かれて行ったのか。その流れを今回は追っていきたいと思います。
1.過信
イエス様は捕らえられるその日に、弟子たちに語られました。
「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。」マタイ26:32.
ゼカリヤ書からの預言を引用して、弟子たちが裏切ることを予告しました。
しかし、ペテロはその言葉に激情しました。
「すると、ペテロがイエスに答えて言われた。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」 マタイ26:34.
ペテロは自分が裏切り者になることを、認めることができませんでした。「たとい全部の者が」と言う言葉に、弟子たちの中に激しい競争意識があるのがわかります。「誰が一番偉いのか?」「誰が信仰が強いのか」そのような自分の能力を競い合ううちに、自分の力を過信してしまったのです。
かつては、聖会があると、最後に献身する者を募り、伝道者が決心者を前に招いたものです。そして、「主のために殉教を覚悟している人はいますか?」と言うと、感動に包まれた若者はみな手を挙げたと言います。純粋な気持ちでけっこうではありますが、しかし、そんな殉教するような危機的状況でもないのに、そのような決心をして意味があるのかと思ってしまいます。
ペテロだって、その時に自分が裏切るなど夢にも思ってみなかったでしょう。心に熱い情熱はあっても、それを実行する力がありません。私たちの肉は弱いのです。アルコールやギャンブルの依存症になると、「もう二度としません」と泣いて決心します。その気持ちに偽りはありません。しかし、それを守れないのです。これが悲しい人間の本質です。
イエス様はその弱さを百も承知でした。裏切るからと言って、責める気持ちはまったくありませんでした。人間がどういうものか知っていて弟子にしたのです。イエス様がペテロに知ってほしかったこと、いや、クリスチャンすべてに伝えたいこと、それは、自分がいかに弱く、頼りない存在であるかを認め、主ご自身にまったく依り頼む者になってほしいという願いです。
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ15:5
自分の弱さを知らないペテロは、絶対に裏切らないと言い張りました。
2.試練
自分の力を過信するゆえ、ペテロはその弱さを、身を持って体験しなければなりませんでした。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」ルカ22:31.
サタンはむやみに、人間を攻撃することは許されません。神の許可が必要なのです。それはサタンの訴えに、正当な理由がなければ、聞き届けられません。サタンの正当な訴えとは何でしょうか?それは、ペテロが自分の力で生きているので、神がともに働けないということです。聖書には中間がないと言うことです。神の守りの中にいないなら、それはサタンの領域にいることになります。イエス様はこの時、ペテロと呼ばずシモンと呼びました。シモンは彼の本名で、生まれながらの人間の呼称です。ペテロはその時、囲いの外から離れた羊のようです。イエス様はペテロのためにずっととりなしていましたが、ペテロが裏切らないようにではなく、「信仰がなくならないよう」にと祈ったのです。自分の力で生きるペテロにとって、挫折は避けられないものでした。
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 」1ペテロ5:8.
このペテロの手紙の言葉は切実です。自ら体験した霊的戦いを元に聖徒に警告を発しているのです。
「しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、『確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。』と言った。すると彼は、『そんな人は知らない。』と言って、のろいをかけて誓い始めた。」マタイ26:73-74.
イエス様を知らないと言うだけでなく、呪いをかけて誓いました。言い訳ができない完全な裏切り行為でした。
「するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、『鶏が鳴く前に3度、あなたは、わたしを知らないと言います。』とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」マタイ26:75.
3.励まし
教育家のシュタイナーと言う人は、人間を4種類の気質に分類しました。第一が「多血質タイプ」好奇心旺盛で、親切、社交的ですが、持続性がない。第二が「胆汁質タイプ」正義感が強く、好き嫌いがはっきりして、明確な意思表示をします。第三が、「粘液質タイプ」のんびり、マイペース型ですが、感性が優れている。第四が「憂鬱質タイプ」頭が良く、石橋を叩いて渡りネガティブ。
パウロは胆汁質タイプと言われています。ペテロは多血質タイプです。胆汁質の人は、厳しくしかられてもへこたれませんが、多血質タイプは落ち込みが激しいと言われています。このタイプには励ましが必要だとシュタイナーは言います。まさに、イエス様はペテロを励まし続けました。
裏切る前からイエス様の励ましは始まっていたのです。
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 ルカ22:32.
「主が振り向いてペテロを見つめられた。」ルカ22:61.
ペテロはイエス様が見つめられた後、イエス様の言葉を思い出しました。その眼差しはやさしい、慈しみの眼差しでした。ペテロは多血質ゆえ、激しい落ち込みを経験します。しかし、そこから立ち直ることができたのは、イエス様のみことばを知っていたからでした。
4.回復
イエス様はよみがえって、弟子たちに現れました。しかし、ペテロたちはガリラヤで漁師を始めています。一度、裏切った事は、ペテロの深い傷としてうずいていました。とても、弟子として立てる状態ではなかったのです。そのペテロたちに、湖の岸で魚を焼いて、イエス様は弟子たちを待っていました。
「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」ヨハネ21:7
相変わらずペテロは衝動的でしたが、主に近づくため上着をまとって、飛び込みました。イエス様は、たき火をして、朝食の魚を用意していました。そして、しばらく落ち着いてから、ペテロに質問を投げかけます。
「『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』」ヨハネ21:15-16。
数日前の競争心に煽られて、自分の力を誇ったペテロとはこの時は違います。自分に対する自信が打ち砕かれて、受身で答えています。私たちは自分のことさえわからないのです。
「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」ヨハネ21:18.
裏切る前のペテロは、すべてを捨てて従っていると思いながら、心の底では、自分のやり方、自分の希望を通そうとして、神様を寄り切っていました。しかし、ふたたび呼ばれたペテロは、キリストに支配される道を進みます。それは、自分では望まない、コントロールできない道です。御霊は風のように、どこから吹いて、どこへ行くのかわからないのです。御霊に導かれる人生は、神に人生のハンドルを明け渡すことです。
5.再献身
ペテロはイエス様が命じたように、羊を牧する者として、エルサレム教会のリーダーになりました。使徒の働きを見れば、その活躍がわかります。
ペテロはネロ皇帝の統治するローマに移って迫害の中、宣教し、紀元67年に殉教したと言われ
ています。教父オリゲネスによると、ペテロは妻とともに捕らえられて、主と同じでは申し訳ないと言うことで、逆さ十字架を願って処刑されたと言うことです。投獄の間、信仰を証しして、40人の看守がその聖霊に満たされたペテロに心を動かされて回心したと言われています。
カトリック教会の法王はペテロの地位を継承する者とされています(もちろん聖書的ではありません)。シモンと言う名は「葦」という意味です。浮草のように不安定な人。そんなシモンがペテロ「岩」に変えられました。イエス様の継続的な励ましと、支えによって、人は大きく変えられるのだということを証明するサンプルになる人物です。パウロは自分の体験から、確信をもって宣言しています。
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」1ペテロ5:10.
黙想・適用
1.自分の力を過信していることはないでしょうか。主から離れて何もできないことを知っていますか。
2.試練があっても、みことばが心にあると、いつも励まされ、自分を支えることができます。あなたはつねに、主の支えであるみことばを蓄えているでしょうか。 3.自分の人生は自分でコントロールするものでは決してありません。主がハンドルを握って、強引に行く場合もあるのです。そのことを覚悟して歩んでいでしょうか。 4.あなたはキリストにあって、変えられていくことを信じていますか。それは主がなさることです。主に信頼して、ともに歩んでいるでしょうか。