自己変革の祈り:②偶像礼拝を克服する

神との契約に入ったイスラエルの民が、敵に圧迫されて、戦いに敗れたり、捕囚にあって奴隷となった時というのはいつも決まっています。それは彼らが周囲の国々の神々に手を出した時です。

まことの神を忘れて、偽りの偶像を慕った時に、イスラエルの民の上に問題が降りかかりました。主はいつでも、偶像に潜む危険を警告していました。偶像に仕えるなら罠にはまると。しかし、イスラエルの民は痛い目に遭ってしばらくは、聞く耳を持ちますが、のど元過ぎればなんとやらで、ふたたび偶像に陥ってしまいます。それだけ、偶像とは人間が捉えられやすいものなのです。私たちは偶像に仕えるために造られたのではなく、まことの神の証人となるために造られたのです。

「あなたがたはわたしの証人、-主の御告げ。-わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。-主の御告げ。-わたしは神だ。」イザヤ43:10-1

2.
私たちは、主なる神に向かう時、自由になり、喜びにあふれます。天は神の王座、地はその足台です。御使いも含めたすべての被造物が主をほめたたえます。主なる神は他に肩を並べる者がいない偉大なるお方です。このお方を礼拝する時、偶像が取り払われていきます。また、このお方はその栄光に対して、当然の礼拝を要求しておられます。神が神であられることに関するみことばを祈ることで、偶像から解放されていきます。

1.偶像礼拝とはなにか

クリスチャンであれば、偶像礼拝がかたく禁じられていることは、誰でも知っています。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト20:3)というのは、十戒の中で最も大切な戒めです。では、お寺にも神社にも行かなくなり、仏壇や神棚を処分すれば、それでよいのでしょうか。実は、偶像礼拝の根は、それほど簡単なものではないのです。 わかりきっていることかも知れませんが、もう一度、偶像礼拝とは何であるかを整理してから進めたいと思います。

旧約聖書を読んで驚くのは、ユダヤ人が、あまりにも簡単に偶像礼拝に陥っていることです。出エジプト記の20章で十戒を聞いた民は、32章で金の子牛を拝んでいます。アロンの情けない言い訳を聞くと唖然としますが、(出エジプト32:22-24)そうでもしなければ、その場がおさまらないほど、民は熱烈に偶像を欲したのです。

なぜこのようなことがおこったのでしょう。民はモーセという指導者を通して、間接的に主の恵みを経験していただけでした。彼らは直接主につながらず、モーセの言うことを聞いていただけでした。だから、モーセが山から降りてくるのに手間取ると不安になり、その隠されていた霊の状態が明らかになったのです。彼らは奴隷経験から絶えず不安で、この不安を解消してくれるものを崇拝します。兵湾を与えるなら、まことの神でなくてもいいのです。不安を解消することを求める人は、神をそっちのけにし、自分のことに集中し、それが偶像礼拝になっています。まことの平和とは主との関係から来るものだからです。

彼らは、偶像を実際にかたちにする前に、既に心の中に偶像を持っていました。つまり、偶像礼拝とは、目に見えるかたちを造るとか、拝むとかいう行為以前に、私たち自身の中にあるものなのです。パウロは、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そして、むさぼりが、そのまま偶像礼拝である」と言っています。(コロサイ3:5)つまり、偶像礼拝は確信犯です。

人間を超えた存在や力をはっきりと感じていながら、造り主を無視して、あえてそれを別のものにすりかえているのです。

「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは むなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」ローマ1:21

「彼らが真理と偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからす。」  ローマ1:25

偶像礼拝がいかに根強く恐るべきものであるかを、テラフィムという魔よけや占いに用いたと思われる偶像を例にとって考えてみましょう。

ヤコブの妻ラケルは、ラバンのもとを去るとき、父の所有のテラフィムを盗み出しました。(創世記31:19)しかし、ヤコブはそのことに全く気付いていません。ラケルは偶像を取り返しに来た父に嘘までついて、ごまかしながら、カナンに持ち込みました。ヤコブは妻の偽りを見抜けず、また、偶像を拝むことに関しての教育を怠っていたのです。

ヤコブは、シェケムに到着後、ようやく異国の神々を取り除きました。(創世記35:4)

しかし、士師時代には、エフライム山地の出であるミカという人が、テラフィムを造らせて、神の宮に置くようになりました。つまり、テラフィムを通して、主に仕えていると考えたのです。

そして、この偶像によって主に伺いをたてるという方法が一般化していた様子が書かれています。おそらく、そのテラフィム自体を拝んでいたのではなく、テラフィムを通して主に伺いをたてていたので、偶像礼拝という意識はあまりなかったのでしょう。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の正しいと見えることを行っていた。」士師17:6。というみことばは、まさに偶像礼拝の本質を語っています。

ダビデの時代になっても、テラフィムはありました。しかもそれは、ダビデの家の中にあったのです。サウルの娘であった妻ミカルが持ち込んだものでしょう。サウルの追っ手を逃れたダビデをかばおうと、ミカルはダビデの床にテラフィムを置いてダビデが寝ているように見せかけたことが書かれています。(Ⅰサムエル19:16) 皮肉にも、ダビデは偶像に助けられたのです。

ヨシヤ王の徹底した改革は、偶像という偶像を破壊しつくしました。そのとき、テラフィムも除かれました。(Ⅱ列王23:24)
しかし、悲しむべきことに、バビロンの捕囚から帰還した民の中にも、なおテラフィムが完全に排除されずに存在していたことが、ゼカリヤによって指摘されています。(ゼカリヤ10:2)

これが、人間なのです。しかも、唯一の主を教えられてきた人々の足跡なのです。使徒ヨハネは忠告しています。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」Ⅰヨハネ5:21

さらに、偶像礼拝には、私たちの存在を霊的に支配する力が深く関わっていることを忘れてはなりません。パウロは、偶像と関わることは、悪霊と交わることであると言っています。

「彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」Ⅰコリント10:20

かたちになったものを拝まなくても、不従順は立派な偶像礼拝です。

「従わないことは、偶像礼拝の罪」(Ⅰサムエル15:23)であると、サムエルは言っています。

要点を整理すると、偶像礼拝の本質は、

2.ヒューマニズム

「自分は教会に通って、キリスト教徒である」という発想だけでは、いわゆるキリスト教文化の中にある偶像礼拝に落ち込むことになります。主が最も怒っておられる偶像礼拝は教会の中にあると言ってよいでしょう。

他人の妻や恋人が、知らない男と歩いていても、ねたむ男性はいません。しかし、自分の妻や恋人が、別の男の写真を持っているだけでも、おだやかではいられません。主は、ご自身を「ねたむ神」(申命記4:24)として啓示され、預言者に姦淫の女をめとらせてまで、(ホセア1:2)メッセージを語り続けられたのは、イスラエルがどうしても偶像礼拝から離れることができなかったからです。そして、そんなイスラエルをどこまでも愛しぬかれたからです。

ペテロは、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」という素晴らしい信仰告白をした直後に、イエス様から「下がれ。サタン。」と言われています。ペテロは何かを拝んだわけではありません。ペテロは一体何を言って叱られたのでしょう。「主よ。神の恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」(マタイ16:22)イエス様が、自分はこれから、多くの苦しみの末に十字架にかかり、殺されて、3日目によみがえらなければならないという最も大切な福音の真髄を語られたにもかかわらず、ペテロはそれを正面から否定しました。勿論ペテロは、自分の尊敬する先生がそんなことになるわけがないと考えてそう言ったわけです。

「ペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。」(マタイ16:22)と 聖書は語っています。イエス様を十字架からひきずりおろし、自分の考えのもとに引き寄せることは、偶像礼拝ではなくて何でしょうか。神のみことばが、人間の考え、情に引き寄せられることこそ最悪の偶像礼拝なのです。「下がれ。サタン。」と言われて一番驚いたのはペテロです。なぜなら、ペテロは善意に満ちてイエス様を祝福し、励ましたつもりだったからです。ペテロは自分の忠実ぶりに酔っているところを、頭から水をかけられるように、叱責されたのです。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」マタイ10:37.

ヒューマニズムは、偶像礼拝です。

3.信仰の罠

信仰熱心はけっこうなことですが、その「信仰を信仰する」という偶像礼拝に陥る危険もあります。「すがるな。味わうな。さわるな。」(コロサイ2:21)という難行苦行も 「私はにつく」(Ⅰコリント1:12)という正統派争いも、結局は自分の信仰を信仰しているのであって、イエス様から目を離しているのです。

名のある先生をあがめたり、奇跡や賜物だけを切り離したり、自分自身が感情的に盛り上がったり、癒されたりすることばかりを求めることも含めて、それらは、偶像礼拝です。激しく祈ることによって祈りが聞かれるという錯覚や、自分の犠牲や苦痛がみこころを成就させるという思い込みも危険です。

イエス様を信仰しているのか、それとも、自分や誰か他の人の信仰を信仰しているのかは、栄光がどこにあるのかで判別できます。信仰を信仰する者は、自分の栄光を求めて、自分から語るのです。

「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし、自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」ヨハネ7:17-18

4.ファンタジー

現実が辛くなると、人(特に子供)は現実を否認して、ファンタジーの世界に陥ります。自分の勝手に作り上げた理想の世界に生きて、真実を見ようとしません。ナアマン将軍はエリシャに祈ってもらうために、豪華な贈り物を持って期待して出かけました。彼は劇的ないやしを思い描いていたのですが、エリシャが予想外の対応したので、憤慨して帰ろうとしました。部下の助言がなければそのままいやされずにいたでしょう。神の計画とか方法を受け入れることができず、自分の理想、願いを優先して、それを神様に押し付けるやり方も偶像礼拝ではないでしょうか。

また、「~だったら惨めな今の自分はなかったのに」「~だったら祝福された人生なのに」このような自分の描いた通りに人生が行かないことへ憤激して、愛の神が立てている計画へ心を向けないこと、それもまた偶像礼拝です。

5.歪んだ神観

「イエス像の二千年」という本で、歴史の中で人々の描くイエス様像が、その時々の人のニーズに合わせて変化していることを指摘しています。カトリックでは唯一の神だけでは足りず、マリヤのような女神を作り上げたり、西洋式の優しいイエス様像を作り上げたり、自分が求める理想像へと神を造り上げています。まことの神と実態がかけ離れているのですから、これも偶像礼拝です。

また、1タラントを埋めた人のように、神を怖いお方だと言って、縮み上がったり、罪を告白しても、いつもでも神が責めていると信じていたり、逆に何でも赦して、裁かないルーズな神にしてみたり、このような歪んだ神観を持ってしまうこともあります。

6.その他の偶像礼拝

ここで偶像礼拝を「神以上に重要とするもの」と定義すると、依存症、歪んだ性質(性格)、悪習慣などの要塞は、偶像礼拝と結びついています。高慢と自己憐憫は自分を高くしたいという自己礼拝です。ポルノ、酒、その他の依存症も、その習慣をやめられない、手放せないわけですから、習癖が偶像となっています。その支配を受けていて、離れることをしません。それでまことの神に向けるべき心をそれらに向けています。他にも仕事、家族、楽しみなど、みんな神以上に大切なら偶像礼拝といえます。

まことの神を神とする祈り

「イスラエルの王である主なる神様、あなたは私を贖うお方です。あなたは初めであり、あなたは終わりであるお方です。あなたのほかに神はいません。私はあなたの証人です。あなただけが私の神です。あなただけがわが岩です。」イザヤ44章6,8節。

「私は主なるあなたを愛します。御声に聞き従い、あなたにすがります。私のいのちであられますから。」申命記30章20節。

「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」ネヘミヤ9章6節。

「天の父よ、あなたが決して悪を行われないこと、全能なるあなたは公義を曲げないことを感謝します。全世界はあなたのもの。もし、あなたがご自分だけに心を留めたなら、その霊と息を、人から抜かれたなら、すべての肉なるものは共に息絶えてしまいます。私たちはちりに帰ります。しかし、主はそうはなさらないで、ご自身の民のために災いではなく、平安を与える計画を持っておられ、将来と希望を与えるものだと約束してくださいましたことを感謝します。」

ヨブ34章12-15節、エレミヤ29章11節。

「わが主よ、偉大さと力と栄えと尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものもみなそうです。天にいますわが父よ、王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべきお方です。」1歴代誌29章11節。

「わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。」詩篇40篇5節。

「わが神よ、あなたはいと高く、私には知ることができません。あなたの年の数も測り知ることはできません。あなたは水のしずくを引き上げ、それが霧となって雨をしたたらせます。雨雲がこれを降らせ、人の上に豊かに注ぎます。いったい誰が雲の広がりと、その幕屋のとどろきとを悟りえましょう。」ヨブ36章26-29節。

「あなたの御手のわざは真実で公正です。すべての戒めは確かです。それらは世々限りなく保たれています。主はまことと正しさを行われるお方です。」詩篇111篇7-8節。

「主よ、あなたは永遠の神、地の果てまで創造されたお方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知ることができません。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつけてくださいます。若者も疲れ、たゆみ、つまずき倒れます。しかし、主よ、私はあなたを待ち望みます。するとあなたは新しく力を得させ、鷲のように翼をかって上ることができるようにしてくださいます。走ってもたゆまず、歩いても疲れません。」イザヤ40章28-31節。

「神よ、あなたの目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、弁解の余地はありません。私が神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えることがありませんように。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」ローマ1章20,25節

「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しています。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しています。」1コリント8章6節。

「イエス様、あなたは、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」コロサイ1章15-17節。

「主よ、あなたの名を恐れます。もし、御名を恐れるなら、義の太陽が上り、その翼にはいやしがあります。そして私は外に出て、牛舎の子牛のようにはね回ることができます。」マラキ4章2節。

「主よ、私が感謝できるように、また慎みと恐れとをもって、あなたに喜ばれるように奉仕をすることができるように助けてください。わが神よ、あなたは焼き尽くす火なのですから。」ヘブル12章28-29節。

「主なる神よ、あなたのなさることは、すべて時にかなって美しいです。あなたはまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができないでいます。」伝道者3章11節。

「主なる神よ、あなたの思いは、私の思いと異なり、あなたの道は、私の道と異なります。 天が地よりも高いように、あなたの道は、私の道よりも高く、あなたの思いは、私の思いよりも高いです。あなたの道が正しいです。あなたの道に従います。」イザヤ55章8-9節。

「主なる神よ、私があなたを離れてどこに行けましょう。あなたの御前を離れて、どこへ逃れましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに下っても、そこにもあなたはおられます。私が翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導きます。あなたの右手が私を捕らえます。あなたは偏在される神であられます。」詩篇139篇7-10節。

「わが神よ、まことに、あなたのみことばは正しく、あなたのみわざはことごとく真実です。あなたは正義と公正を愛されます。地があなたの恵みに満ちていることを感謝します。あなたは人間んではなく、偽りを言うことがありません。人ではないので、悔いることがありません。言われたことを成され、約束されたことを成し遂げられることを感謝します。」 詩篇33篇4-5節、民数23章19節。