スチュワードシップは日本語にすると、「家令職」、「管理人」「給仕する者」などと表現したら良いでしょうか。男性なら「スチュワード」女性なら「スチュワーデス」になります。旅客機の搭乗員などで使われます。私たちの信仰生活は神に対して、スチュワード、スチュワーデスなのです。
1.聖書のスチュワードシップ
聖書に出て来る「オイコノモス」がそれに該当します。創世記44:1,4(家の管理人)、Ⅱ列王記15:5(宮殿を管理する)、イザヤ22:15、Ⅰ列王記18:3(宮廷をつかさどる)、Ⅰ列王記(家のつかさ)、Ⅰ列王記4:6、Ⅱ列王記10:5(宮内長官)、ローマ16:23(収入役)、ルカ12:42、16:1(管理人)、Ⅰコリント4:2、Ⅰペテロ4:10)。
2.その地位
上記の職種を見たらわかりますように、単なる番人や給仕役ではなく、番頭、家老、支配人、管理人のような身分の高い仕事だと言う事がわかります。英国では専門の学校があり、その地位は高く、尊敬される職業です。ヨセフが管理人に任命された時、主人ポテファルの家のお金や人、すべてを任せられたように、重要な仕事なのです。
3.しもべ・奴隷
パウロはその立場をある時は「キリストのしもべ・奴隷」と自らを呼ぶ時があります。これは、奴隷が主人に買い取られたら一生の拘束され、主人に縛られて、離れられない関係から、こう呼びました。私たちは現代の奴隷制度から、肉体を酷使され、無教養な者のイメージがあるかもしれませんが、聖書の時代の奴隷は、戦勝国が敗戦国の中から、優秀な人材を奴隷として連行したため、血統、教養から言えばエリートなのです。また、戦争に勝つ国は新興国であり、伝統や老国を破るケースがほとんどですから、連行された奴隷たちの方が「血統」の良い円熟した人たちなのです。ダニエルたちのような優秀な人材が奴隷になったのです。総督ペリクスも奴隷でした(使徒23:26)。大家の子女の家庭教師なども奴隷の仕事でした(ガラテヤ3:24)。まさに、スチュワードをしもべ、奴隷というのは卑下される地位ではなく、誇り高い仕事です。
それゆえ、神様が私たちの人生のあらゆることを管理させることは、たいへん、光栄な仕事なのです。
4.神への仕え方
① クリスチャンは主人である神が買い取った神の所有になった存在です。ですから、主人のもとを途中で去ったり、脱走したりすることは許されません(ピレモンの手紙)。主人であるイエス様に生涯、服従する必要があります。ただし、近代奴隷のように牛馬同然の苛酷な扱われ方をするのではありません。イエス様は愛によって、私たちを支配してくださるのです。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 マタイ11:29-30.
② クリスチャンは強いられてではなく、自発的な愛の動機によって仕える必要があります。恐怖や義務感から仕えるのは、福音に動かされた奴隷の姿ではありません。イエス様の犠牲的な代価によって買い取られた奴隷として、愛に動かされる者なのです。
「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。・・ しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。 」出エジプト21:2-5.
③ クリスチャンは神の賜ったものを扱って、主人の喜ばれるように管理するべきです。自分勝手に用いるべきではありません。ある人が「クリスチャンは、良いことをするのではなく、神がせよと命じたことをするのである」と言いました。
④ 管理すると言っても、それは自由の采配で管理することができます。神様は私たちに自由に管理することを許されました。それゆえ、神を喜ばすために自由を持ちます。
「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」1ペテロ2:16.
⑤ ルカの福音書12章42~48節では「思慮深い管理人」と「下男、下女」と奴隷の中にも地位の違いがあること示しています。主人に対しての忠実さによって、祝福された地位と報酬をもらうのです。ルカ19章11-27節によると、地上の忠実さで、御国の地位も決まると譬え話を通して、イエス様は語っています。
「主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」ルカ19:17.
4.主人との清算の日
聖書は、私たちが人生の管理人として、機会を用いて生かすように教えています。そして、一人一人がどのような生き方をしたのかが問われる。主人である神様との清算する日が必ずやって来ることを教えています(マタイ25:14-30)。
① この世の富に生きる者への警告
ルカの12章15-21節を読んでみましょう。彼の問題はどこにありますか。
第一は、彼は自分の魂を物によって慰め、養おうとしていることです。私たちの内面は永遠を求めており、神様を知ることなしに、それを満たすことはないからです。
第二に、彼は富んだ人で、非常に祝福されましたが、その余剰分を分け与えることはせず、全部、自分のために貯め込みました。このような欲で満たされて、隣人に対する思いやりや愛することに無関心です。そもそも、自分が持っている者を自分のものだという勘違いからこのようなことが起こります。聖書はすべて神のもので、私たちはそれを管理しているのです。どのように使うか采配は自由ですが、責任があり、神のみこころにかなった管理が求められるのです。
第三に、彼は自分のいのちが限りがあり、そして、いつか清算の日が来ることに鈍感でした。そして、神の前に富まない彼は神の厳しい裁きを受けたのです。
香港に住むリー・フという70歳になる実業家がいました。彼はマカオでカジノで楽しんでいました。彼はその日、絶好調で初めに中国式ギャンブルで5千ドル稼ぎました。調子に乗ったリー氏はそのお金をそのまま、ブラック・ジャックにすべてつぎ込みました。すると、キングとエースの21の大当たりです。彼の席のテーブルには山のようにチップが積み上げられました。彼は満面の笑みを浮かべて、そのまま意識を失い、帰らぬ人となりました。
聖書に出てくる愚かな金持ちは「愚か者」と叱責されました。ヘブル語で「ナバル」と言います。アビガイルの夫がナバル(Ⅰサムエル25:25)です。
「愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。」詩篇51:1.
「 持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。」ルカ12:33.
あなたはこのような愚か者の生き方をどう思いますか。自分の欲を追究する道は清算の日に、愚か者と呼ばれるのです。怖いですね。
② 神の評価
人間の評価はどれだけ活躍して偉大なことをしたか。どれだけ所有し、獲得したか。およそそのようなものです。しかし、神の評価はまったく逆なのです。
人に評価され、自分とその欲のために生きた人に対して聖書はこう言っています。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」黙示録3:17.
しかし、忠実なスミルナの教会の人に対して、神はこう評価しています。
「「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――・・」黙示録2:9.
5.キリストが与えた富
イエス様は神の子であり、偉大な富んでおられるお方でした。しかし、十字架まで卑しくなり、貧しさを生きました。それは、私たちが富む者になるためにそうしたのです。
「・・すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」Ⅱコリント8:9.
これは、私たちを金持ちにするためでも、物質的な富のことでもありません。もちろん、これらは必要に備えて与えられますが、それ自体は本質ではありません。イエス様が与えた富は、信仰の富なのです。
「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」ヤコブ2:5.
「 はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」マルコ12:43-44.
この信仰に富む者を私たちは目指したいと思います。これから、スチュワードシップについて学んでいきます。