霊的スランプに学ぶ(第3回:歩く木のような人間)

1章で霊的スランプを脱することは急務であり、重要であること、そして、その基礎として2章では信仰義認について学びました。そして、今回の3章で次のステップの学びに入ります。テキストになるのが、以下のマルコの福音書にある盲人の目が開かれる箇所です。

「彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。 それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」と言われた。」マルコ8章22-26節。


1.盲人のいやしを通しての教訓

なぜ、この盲人のいやしは段階的に少しずついやされたのでしょうか?もちろん、イエス様が苦戦して、手間取ったからこのような方法になったわけではありません。他の箇所では瞬時にいやされるケースもあります。全能の神の力によっていやされるのに、なぜ、このようないやされ方があるのでしょうか?ジョーンズ師によると、イエス様はあえて、その時の弟子たちに教訓を与えるために、このようないやしを行なったと解説しています。この出来事の前の節では、弟子たちがイエスの教えを悟らないで苦労しているのがわかります。

それに気づいてイエスは言われた。「なぜパンがないといって議論しているのですか。」・・「まだわからないのですか。悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。」・・「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。」・・イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」

ここでイエス様がいやしのプロセスで教えたいことは、この盲人はイエス様に触れましたが、少しは見えましたが、はっきりと物事を認識できなかったと言う事です。人間が歩く木のように見えました。まだ、十分に悟れない弟子たちと同じ、中途半端な状態です。ジョーンズ師は、霊的スランプに陥る原因の一つは、霊的な真理を悟れない状態にあると指摘しています。イエス様は五千人にパンを与える奇蹟を見せました。弟子たちもそばにいて、それを体験したわけです。しかし、それを体験しても、霊的にまだ開かれていなかったので、今度は四千人を前にした時に、同じように悩みはじめました。そして、自分で何か努力してパンを上げないといけないと考え、思い煩いました。イエス様がどういうお方か悟っていたら、このような悩みとはおさらばしているはずです。私たちもイエス様を信じているということは、全能の神の力が私たちのうちに働くことになります。その真理を深く悟るなら、どれだけ自分の人生に大きな可能性があるかがわかるはずです。それなのに、そのお方が誰なのか悟っていないので、自分の力だけを見て、落ち込み、嘆くようになるわけです。

イエス様は盲人を段階的にいやすことで、「この盲人は人を木のように歩く人間に見えている。君たちも、この盲人のようなのだ。中途半端にしか、真理を悟っていない。だから、私の言葉が悟れないし、現実の世界で悩むしかないのだよ。」そう言っておられるようです。ジョーンズ師は「この人は盲人ではないが、同時に盲人である。」と言っています。この言葉を真理を悟れないクリスチャンに適用するなら、「あなたはイエスを信じてクリスチャンとして、新生はしているが、悟れないので、クリスチャンとしての本来の喜び踊る生き方ではなく、霊的スランプで悩み、うなだれているのだよ。」と表現したらいいでしょうか。イエス様を信じている、だからクリスチャンである。新生しているし、罪赦され、天国にも行けるだろう。しかし、なぜ、そんなに不幸せな表情をしているの?なぜ、敗北感でいっぱいなの?そういう人を歩く木のような人間と言う事です。歩く木のような人間のクリスチャンは、自分でもそう感じています。救われ、新しくされた者とは思えない自分に困惑しているのです。

クリスチャンなのに確信がない、「冷たくもなく、熱くもない」「見ているのに、見えていない」こういう状態のことを言います。

2.霊的スランプの人は何を見ているか

① この世のものを求めている

見ているのに見えない、聞いているのに悟れない。こういうクリスチャンは、何を見て、何に関心を持っているのでしょうか。ジョーンズ師は「新聞の三面記事を読みあさり、実社会や劇場で、人々に目立つ、賞賛されるような生き方に憧れ、それを素晴らしいと感じ、うらやましがっている人。これこそ充実した人生だと確信している人」と表現しています。世の中の人は、「もっと出世すれば、収入が増えれば、美しくなれば・・」とその先に幸せがあると思い込んでいます。しかし、ハムスターの回し車のように、ゴールのないレースに参加しています。そして、そのレースで虚しさ、絶望感が増していくのです。歩くの木のような人間は、まさにクリスチャンでありながら、そのような価値観に縛られている人と言えます。それで、霊的に真理が遮られているのです。

② 律法、ヒューマニズムに生きている

十戒とか山上の説教などの教えをめざすことで、それを人生の目標とするような人です。トルストイも山上の説教にあこがれ、小説で得た印税を全部、貧しい人に施しました。もちろん、その行為自体は良いことであり、間違っていません。しかし、それは福音から湧き出る恵み、いのちによって、成されるべきです。福音に生きる生活ではなく、キリスト教的倫理、道徳、社会活動によって、あらゆる善行を行なう生き方です。言葉を変えるなら、このような生き方をする人は、自分で自分を救うために善行している。自分の善行で人生を充実させようとしている、自分の善行で自分を納得させようとしています。前回触れましたが、福音の基礎は、自分で自分を救うことはできない。人間は絶望的状態にいるということを認めることが初めです。

3.歩く木のような人間にある要因

① 教理を知らない

聖書を読み、適用する前に、正しい教理が心に刻まれていないなら、あいまいで適当な理解になり、その適用、生き方が、聖書とはずれていきます。キリストはどのようなお方か?その死と復活の意味、聖霊とは?罪について、赦しについて、救いについて、教会とは?これらを明確に学んでいなければ、自分本位の解釈と適用によって、いずれ霊的スランプになります。聖書は「真理はあなたがたを自由にする」と言っています。逆に言えば「真理からはずれるなら束縛される」と言う事です。

② 神との親密な関係がない

人間関係が希薄な人が、孤独でさまざまな心の苦しみを抱えるように、神とのいのちで結ばれた人格的関係がなければ、幸福を見いだすことはできません。神との親密さがなければ、当然、虚しく、自分で幸福を築き上げなければいけません。それで、人間的なものに頼って、幸福を探し続け、悪循環に陥るわけです。それも延命治療のようで、いつか、綻びが出てきます。

③ みことばに従う決意がない

みことばは好きで、学びも大好き。しかし、じっさいに自分の生活にみことばを適用するとなると、葛藤して、従うことをしない人です。たとえば「ささげなさい、赦しなさい、伝道しなさい」とみことばが語る時、古い肉に生きていた私たちには、これらの命令は心地よいものではない場合があります。できない理由探して、従おうとしません。福音とは自分ではなく、キリストにしていただくことです。そのためにはその人が従うと言う意思が大切です。トラックのような大きな乗り物の方向を変えるのに、ハンドルを動かさないといけません。自分ではできなかもしれませんが、キリストに委ねて「ささげます。赦します、伝道します」という行動のともなう意思が必要なのです。みことばの方向に向かう時、聖霊が働いて、それらをできるように助けてくださるのです。心から従う意思のない人の特徴は、儀式的な宗教が好きです。使徒信条、主の祈りは唱えるのが上手です。祈りも賛美もよくできます。しかし、みことばの実践になると「これは現代に合わない」「そのままだと厳しすぎる」「自分は弱いから無理」とか言います。また、旧約は嫌いとか、えり好みするのも問題です。聖書は熱いか冷たいか?味方か敵対か?のどちらかです。明確に従う決意が必要です。

また、聖書の権威を認めない人。これらも同じことです。子供のようになって単純にみことばを信じる者でなければなりません。現代はポストモダンと言われ、絶対的価値観はなく、それぞれの考え、意思を尊重するというものです。人間はそれぞれ自分の背景、教育、体験があります。それらを基に聖書を解釈していけば、いかようにも聖書は解釈できるようになります。私たちは聖書が教える原則、教理を土台とした真理に自分を合わせていくのです。みことばの権威に服することが人間の立場です。そうでないと自分に都合の悪いものは勝手に解釈して、真理を曲げることになります。

4.見えるようになるために

① 見えないのに見えると思っている

ユダヤ人は、ユダヤ人として生まれたら、救われるし、神の啓示を受けていると勘違いしていました。取税人とパリサイ人の祈りの中で、パリサイ人の祈りは、「罪深い取税人のようでないことを感謝します」と祈っています。表面的な行いで自分が神様から受け入れられると勘違いしています。まったく霊的な盲人です。

「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」ヨハネ9章41節。

このような思い上がった人は、自分が霊的盲人であることに気づかないといけないのです。聖書を学んで、これで満足というのはないのです。神の知恵の深さは生涯かかっても十分ということはありません。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」Ⅰコリント8章2節。

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」詩篇119篇130節。

ここで「わきまえのない者」という意味は、聖書を読む時に、いつでも初心者のように、新鮮な心で教えられる態度の人です。説教を聞く時に、「この話、前も聞いたぞ」と思う人は、そのような人ではないですね。一つのことが生き方に変わるまで、何十回も聞かないと身につかないのです。

② 見えない自覚はあるのに見えるように求めない

霊的なものに関心を示さない人、生活がある程度、順調であれば、神を求めようとしない。試練に遭うと慌てて神を求める。どんな時も飢え乾いて神様を求めていないなら、得ることができません。バルテマイの必死の願いを学ばないといけません。

「彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。」ルカ18章41節。

「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」黙示録3章18節。

動物は反芻するのがきよい動物です。反芻はみことばを心に宿し、思い巡らす人のことです。「この意味は何なのか?主は何を伝えたいのか?」そのような態度をいつも持っている人は、すぐにはわからなくても、10年後、20年後のある日、開かれる瞬間があります。その時の感動は体験した者でなければわかりません。そのような霊的なものに貪欲な人こそ、見えるようになるのです。