霊的スランプに学ぶ(第4回:知性・感情・意思)

ロイド・ジョーンズ:霊的スランプから学ぶ
第4回:知性・感情・意思

プロのテニス選手はみんな利き腕だけが極端に太いです。それは利き腕にラケットをもって集中的にプレーするからです。見た目にはアンバランスです。昔はよく「専門バカ」と言う言葉を使いました。クイズ番組に出たある有名私立大の教授は西洋史では日本で有数の専門家でしたが、クイズで出題される一般常識問題にとんでもない答えを出して視聴者を大笑いさせました。自分の専門分野以外はからっきし無知なのです。私たちの人生はバランスが大切です。信仰もバランスが大切です。ある部分が成長して、ある部分が未熟というのは不健全な信仰と言えます。バランスの取れた信仰とはどういったものでしょうか。

1.サタンの狡猾さに備える

霊的なスランプに陥る人の場合、信仰生活に対するイメージにある幻想をもっていることがわかります。「一度、イエス様を信じるなら悩みがなく、喜び、幸せに暮らせる」こう考える人はいつか霊的スランプになるとJ師は言っています。クリスチャンの国籍は天国であり、罪赦され、永遠のいのちに入っています。しかし、同時にサタンに絶え間なく攻撃される地上に住んでいるのです。私たちは「信仰の戦い」の中にいます。防御しなければ攻撃をまともに受けて、撃沈させられてしまいます。私たちは武装し戦わなければいけないのです。そして、サタンはあらゆる角度から攻撃をしますし、あらゆるタイプの人に近づいてきます。あからさまに迫害してきたり、光の天使になりすまして、甘い誘惑で近づく場合もあります。とても狡猾なのです。私たちはサタンの目的を知らなければなりません。サタンの目的は神の恵みを台無しにし、クリスチャンが意気消沈して、光が消され、塩気を失うことです。極端な言い方をするならば、クリスチャンとなった証明はサタンの攻撃を受けると言うことです。サタンから攻撃されない人はクリスチャンでないか、サタンから影響力のない人と認定された寂しい無力なクリスチャンのどちらかです。ですから、試練(迫害など)はクリスチャンの証しです。この試練が来た時に、サタンの策略を知らないので、私たちは落ち込んで、惨めな気持ちになります。その裏でサタンがほくそえんでいます。そして、霊的スランプになってしまいます。このサタンの策略を理解して、戦いに備えるクリスチャンになって行きましょう。

2.トータル的クリスチャン

「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」ローマ6章17-18節.

このみことばでパウロはローマ教会の人たちが、クリスチャンの揺るぎない信仰の土台を確立して、解放と自由を味わっている状態を神に感謝しているのがわかります。どんな状態かと言いますと、「かつてサタンの奴隷、罪の支配下」にあった彼らが今はそれから解放されて、クリスチャンの自由を味わっていると言うことです。かつては惨めなクリスチャンだったのです。彼らは信仰をバランスよく成長させ、トータルで整えられたクリスチャンに変えられたのです。

ローマ教会の解放の理由は「伝えられた教えの規準に心から服従」したからです。この箇所には信仰の3つの領域が表されています。知性、感情、意思です。まず、第一のステップに「伝えられた教えの基準」がありました。J欽定訳聖書には「伝えられた一定の教理」という表現になっています。使徒たちから教えられた正統な一定の教理を知性、思考力をもって学んだわけです。これこそ大切な基準です。これからずれたら、ボタンの掛け違いで、すべてが間違いになります。どんなに勢いがあり、繁栄しても異端は異端です。第二のステップに「心から」この表現に感情がともなって同意し、学んだと言うことが言えます。学んではいるけど、「なぜ」「でも」と感情が反発する場合は「心から」とは言えません。ローマ教会の人たちは喜んでアーメンと言えたと言うことです。第三のステップに「服従した」ここで意思がみことばと結びついて機能しています。みことばを悟って、心から同意して、そのみことばが生活の中で実践されて生きたものとなっている。これが解放の理由でした。この知性、感情、意思の三要素がトータルでバランスよく整えられないといけないのです。サタンは信仰を三つのどれかに偏らせ、アンバランスなクリスチャンにしようとして働きます。

3.偏った信仰の特徴

① 知性への偏り

ある人たちは頭だけを動員して、信仰を理解しています。聖書の釈義、歴史、背景など興味を示して、熱心ではありますが、キリスト教的哲学、観念でしか捉えません。ヨーロッパの教会はこの知識偏重の信仰に陥りました。その結果、神学は発展し、偉大な神学者を輩出しましたが、その代わり、教会は閑古鳥が鳴き、立派な教会堂は観光客で維持されています。そして、何よりも第二次世界大戦の時に、独裁者が台頭した時、教会は無力でした。その暴走を指をくわえて見ているだけでした。日本でも知識偏重で、信仰が冷えた教会が存在します。J師はこのような知識偏重の教会には人間的優しさに欠け、論争が多く、人間的な言葉が飛び交う、そういう雰囲気を持っていると言っています。なぜなら、せっかく研究の対象となる福音が実生活に適用されないから、人生に変化がまるでないのです。このようなグループに属する人の中には、ヒューマニズムに汚染して、聖書から逸脱した活動があります。知識だけで、ヒューマニズム化した信仰で、ハートに信仰が降りてこない悲劇です。また、ローマ12章の賜物において教えの賜物を持った人も、そのような傾向にならないように注意が必要です。

解決として、知識に偏りがちな人は、霊的な部分を養う必要があります。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい(ローマ12:11)」。このみことばは教えの賜物を持つ人への助言ですが、「霊に燃える」ことがポイントです。熱い信仰でみことばを研究すると言うこと。ルカは教養のある教えの賜物を持つ人でしたが、彼の文章には霊に燃えているのが伝わります。霊に燃えるにはよく祈り、賛美をささげることです。

② 感情への偏り

ある人たちは福音が感情により影響を与えている人たちもいます。そのような傾向のある教会に行くと、明るく雰囲気があります。「ハレルヤ」と熱烈歓迎してくれます(ハグする人もいる)。賛美もにぎやかで、手を上げたり、たたいたり、踊る人もいます。基本的に優しい人が多いです。しかし、それが体験的、情緒的な解放を求めることが目的となったりして、大きな危険をはらんでいます。人間は本来、宗教的に造られているいますので、霊的な体験を求めるのは当然ですが、偏るのはよくありません。このような人が引越しをすることになった時、新しい町で教会を選ぶ基準は会堂や、人々の雰囲気、賛美などです。牧師が聖書に忠実に釈義しているかよりも、いかに感動する説教をするかで決めます。そのような教会には人を魅了する、カリスマ的牧師が出現します。また、彼らが求めているのは幸福感、喜び、興奮です。これらを提供できない教会は彼らにとって良い教会ではないのです。聖書を深く学ぶこと、生活に適用することは重要ではないので、思考が停止している信徒が多いです。普段は熱心ですが、感情が落ち込むと責任を放棄したり、みことばで信仰に立つことをせず、感情に流されます。みことばが絶対服従の指針ではなく、気が向くと従う、自分が落ち込んだり、気分がすぐれないと、背いたりします。そうやって霊的スランプになって行きます。

解決として、聖書を学びに重点を置くことです。天気のような感情に流されない、みことばに立つ生き方をする方法を学びます。感情が落ち込んだ日も、気が向かない日も、しっかり責任を果たし、忠実であるように生きるすべを学ぶのです。ヨハネは愛を強調する情緒的な人ですが、手紙は福音をしっかり押さえて語っています。

③ 意思への偏り

また、ある人たちは意思、行動に焦点を当てるグループがいます。彼らは伝道を強調します。このような教会で救われた人はほとんど、有名な伝道者の集会で、前の方で招かれて、本当に福音が理解したのかはさておき、伝道者が熱い説教を語り、イエスを受け入れよと招いたので、その迫力に圧倒されて、心より足が先に動いたという人が多いのです。「主のために」「決断」とか言う言葉がよく使われます。たとえば十分の一献金も聖書を深く学んで、その根拠を理解し、それが恵みであり、祝福であることを知って、自らの意思でささげるのが普通ですが、牧師が「あなたは主のものを盗んでいる」「天の窓が開くと言っている、試しなさい」とか半強制的に急き立てられてやるような傾向があります。伝道、献金、礼拝出席、これらは自発的なもので行なうのが理想ですが、それらが見えない圧力で、やらないと不信仰だと思われる雰囲気があって、やらされる。意思が強調されると、そのようなことが起こります。異端と言われるグループは論外ではありますが、意思を強調します。福音を知性で十分に消化する前に、「従え」と圧力をかけるので、こちらも思考停止になります。熱心ですが、依存心が強い信徒で育ちます。カルト問題を起こす教会もこのグループが多いです。このグループの指導者も福音を理解していません。

解決として、指導者依存から脱却することです。指導者が教えるまま受身にならず、ベレヤの人々のように、パウロが言ったことが、果たして聖書的かどうか、自分の頭で考えて、答えを導き出すことです。カルト集団に取り込まれる人は、家族不全で育った人が多く、そのような心の問題も扱う必要もあります。イスラエルの人々はイエス様がメシアであるか、自分の判断ではなく、指導者の判断を最終的に仰ぎました。指導者には当然、重い責任がありますが、指導者に従ったイスラエル人も滅びました。最後は自分の責任で考え、判断する必要があります。コリント教会には奴隷の信徒が大勢いました。奴隷にもパウロは福音を教えました。福音はどんな人にも御霊によって理解できるものです。誰でも自分の判断で聖書を理解できます。

4.教職者の問題

牧師たちには耳の痛い話ですが、J師はこのような偏りを生んだ原因に、教職者の指導が問題だと指摘しています。牧師になるために献身した人は、まず、神学校に入ります。神学校はどこかの教団に属するものです。教団にはその歴史と教理があります。異端でなければ、多少の相違があってもお互いに交流はできます。神学校で学んだ神学が強烈にその人に働いて、その人の牧師としての素地ができます。説教を聴けば、どこの教団かわかるものです。その教団の神学を土台として聖書を読んでいくと、その神学から導き出される解釈になります。知性重視の教団の牧師はそのように育てられ、信徒はその指導を受けます。そのようにその教団の流れを組む人間がたくさんコピーされていきます。人には賜物もいろいろ、タイプも背景、育ちも違います。そのような個性が失われ、金太郎飴のように同じ信仰者が作り出されるなら、それは聖書的とは言えません。このような偏りを回避するために、牧師も信徒も個人ディボーションを習慣にする必要があります。神様が個人的に語りかけるみことばを聴く習慣です。ディボーションのない生活を送るクリスチャンは、直接の語りかけ、教えがないために、指導者の釈義したその流れの教えを受け身で取り入れるようになります。

知性・感情・意思の3つの要素はバランスが大切なのです。3つのうち1つだけ欠けても良くありません。福音が3つの領域に浸透して、はじめてその人は福音化したことになります。聖書の知識はよく知っているけど、頭でっかちで愛情も行動もとまなわない人はバランスに欠けます。いつも明るく、喜び、賛美していても、聖書をよく知らない、愛の行いがない、伝道しないもバランスに欠けます。伝道も奉仕もよくするけど、それが聖書に基づいていない。指導者にせかされて衝動的にやっているのもバランスが悪いですね。イエス様は3つの要素が整った全人的信仰者を育てようとしています。最後に3つの領域であなたの開かれて、良い部分は3つのうちどの領域ですか。逆に弱点と思われる部分はどこですか。そして、それを解決するために、どう補っていきますか。課題を見つけましょう。