第1回:霊的スランプの考察

20世紀最高の説教家と言われるロイド・ジョーンズ師の格調高いメッセージは今でも続々、翻訳が出ていて、牧師、信徒両方に人気があります。その中でも名著と呼ばれる「霊的スランプ」をテキストに学んでみたいと思います。この本の主張を取り上げ、私たち自身で消化し、適用して行きましょう。聖書は詩篇42,43篇を取り上げています。とくに42篇をはじめに読んで、黙想してみましょう。

1.霊感された詩篇

詩篇は人間の赤裸々な感情、思い、うめきが綴られています。きれいごとではなく、人間が現実に直面する様々な苦悩、痛みを正直に表現されています。自分の苦悩を告白する中で、ある時は自分に降りかかる災いによって自分の人生を嘆き、敵を呪い、神様に対して疑惑の念を表しています。「こんなこと言っていいのか?」とクリスチャンなら思ってしまうことも正直に現わされています。しかし、この詩篇は神に霊感された聖書なのです。この詩篇によって多くの聖徒が慰められ、励まされて行きました。それは神の御霊に触発された著者たちが、偽りのない気持ちを表しているからです。これは神様に向かう、魂の格闘であって、一人不満をぶつぶつつぶやく罪とは違います。つぶやきは自分の思い通りに行かない人生を一人言か、他人に不満をもらしますことです。神に向かっているのではありません。ロイド・ジョーンズ師はこのように言いました。「詩篇を一言で言い表せば、イスラエルの霊感された祈りと賛美の書であると言えよう。人が日常に用いることばによる真理の啓示である。啓示されたこの真理は、神の民が遭遇する状況によって、刺激され、感情、願望、また苦悩の中に再現される。」

2.霊的スランプと現代のクリスチャン

ジョーンズ師は戦前戦後に活躍した人です。彼が(50年前ぐらい前)指摘している世代と私たちは違います。しかし、むしろこの問題はもっと深刻になっていると言えます。ですから、彼の指摘はその当時以上に考えさせられることです。それは「クリスチャンが幸せそうに見えない」と言う事実です。ジョーンズ師の時代のヨーロッパは第二次世界大戦によって、人々の心は荒廃していました。それはクリスチャンも例外ではなかったようです。現代の日本は物に囲まれ、豊かでありますが、さまざまな問題の中で国家の末期症状と言えます。世の中と比例して日本のクリスチャンも問題の中で押しつぶされそうであり、敗北感と不幸せな信仰者が多いと言うことです。これはどんなに表面的に笑顔で取り繕ってもわかるものです。太宰治が「クリスチャンの偽善的笑顔」と指摘しているように、それは不自然に見えるのです。ジョーンズ師は「幸福感」と言っています。幸せを実感していなければ、それは表に出てきます。「ふり、はず、つもり」ではだめなんですね。幸福感を喪失したクリスチャンは、内心で絶望し、詩篇の著者のように魂が「思い乱れて」いると言っています。
そして、不幸せに見えるクリスチャンの存在が世の人々が教会に行くための大きなブレーキとなると断言しています。世の人々は真理とか神の救いには関心がありません。彼らの興味は「実際的なもの」です。実利と言うことです。つまり、教会に行けば実際的に役立つか?幸せになれるか?という基準で教会に足を運ぶかを決めると言うことです。人々は目の色を変えて、そのようなものを探し回っています。そのような世の人々に、神様は私たちのこの世の価値観を超越した幸福感で満たして、その姿をもって、伝道できるようにしているのです。初代教会は貧しく、迫害されていましたが、言いようもない幸福感を持っていたので、人々は惹きつけられ、好意を持ったわけです。ですから、私たちの伝道の武器はこの福音による幸福感なのです。それなのに憂鬱で苦悩の日々を送るクリスチャンであるなら、その姿を見た世の人々は絶対に教会に行こうとは思わないはずです。元気で明るい人の周りには人が集まって来ます。みんな元気をもらいたいのです。落ち込んでいる人の所には誰も近づこうとは思いません。私たちはキリストの栄光のために人々が魅力を感じるクリスチャンになりたいですね。「あの人、何で喜んでいるんだろう?問題は山積みなのに」そう言わせたいものです。意気消沈しているクリスチャンはそのような働きをすることはできないのです。

3.自己吟味

① 落ち込む自分の姿を知る

このようなクリスチャンが落ち込む、憂鬱になる場合にジョーンズ師は「自己吟味」のために時間を割こうとしないことを指摘しています。みことばは真理であり、みことばは私たちを自由にします。私たちには世の人々と違って、落ち込み、憂鬱に対して特効薬があるのです。医者が患者を診察して、薬を処方し、治療方法を具体的に指示したとします。患者が家に帰って、その薬も適当に飲んだり飲まなかったり、治療のための具体的指示に従わないなら治りません。聖書は私たちが霊的スランプから立ち上がって、力強く生きるために処方されています。ですから、まず、自分を吟味して、どのみことばを適用するかを注意深く、詳細に学んでいく必要があるのです。
私たちが苦悩し、心が沈んでいるとそれは必ず、表情に表れて来ます。先ほども言ったように隠すことができません。詩篇の著者も自分の表情が暗く、憂いに満ちた顔をしていることを悟っていました。ジョーンズ師はまず自分が人々からどのように見られているのかを知ることが大切だと言いました。そこから問題の解決と解放のステップが始まると言っています。芸能人は人に見られるのが仕事ですから、見栄えにとても気を使います。それでいつまでも若く、好印象を与えるために努力します。その結果、人々を寄りつかせるオーラを放つわけです。逆に体臭、服装、髪型など気にしない人がいます。自分がどう見られているか気にしないので、人に不快を与えていても気にしません。落ち込んで、憂鬱な状態はどれだけ人を不快にし、引き下げるかを知ったならば、どうにかしないといけないと思うはずです。ジョーンズ師は自分を客観的に観察し、「自分が見せている表情や姿がどんなものであるか努めて考えてみよ」と言っています。

② 主の御顔を仰ぐ
「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」詩篇42篇5節。
詩篇の著者は「御顔の救い」と表現しています。私たちが悩みの渦に巻き込まれた時は、憂鬱な表情になります。しかし、神に向かい、神に触れるなら必ず、その栄光が反映されて輝いてきます。モーセの顔が主と交わったために輝いたように、私たちの顔も輝いてきます。憂鬱な心は必ず顔に現れるように、内面に反映された栄光の輝きは表情に現れます。ですから、仮面をかぶって笑顔を振りまく必要はありませんし、自然と人々を惹きつける表情になります。「御顔の救い」とは私たちの表情が幸福感に満たされた、救いの証明になると言うことです。
4.霊的スランプの一般的な原因

霊的なスランプは様々な要因も重なっていると教えています。ですから、一概にすべてを霊的な問題にはできないことも事実です。ジョーンズ師がいくつかそれを指摘しています。

① 気質

一人一人はみな性格も異なっていて、直面する問題や試練に対して、その性格や気質によって大きく左右されると言うものです。バーレーボールのあるコーチは厳しくすると、逆に奮起して力を発揮する選手もいれば、逆にひどく落ち込んで自信をなくす選手もいるので、選手の性格によって、厳しくしたら、優しく誉めたりしていると言っていました。先天的に陽気な人もいれば、内面を見つめる内気なタイプもいます。そして、霊的スランプに陥りやすい気質の人がいると指摘しています。だからと言って、その人が特別に罪深いと言うことはありませんし、当然、救われていないと言うのでは決してありません。有名な伝道者にも根暗そうな表情をした人や、鬱になる人もいます。逆に内気な気質によって、心を深く洞察するため人間理解が深くなります。作家、哲学者、神学者になる人にはそのような人が多いのです。ジョーンズ師はこのような気質の人たちが自己吟味することは評価しつつも、病的に自分を見つめすぎないように注意を促しています。

② 身体

身体的な不快感が霊的スランプを起こす原因になりうると言っています。病院に勤めていた時に感じましたが、病気の人は心もふさぎ込むし、憂鬱になります。英国の説教者スポルジョンは霊的スランプに陥りやすかったと言われていますが、彼の苦しみの原因の一つは痛風に悩まされていたと言うことです。身体の不健康は心と結びつきます。栄養のある食事と運動は欠かせないですね。

③ 反動

エリヤがバアルの祭司たちに大勝利した後、陥った霊的スランプのようなことを意味します。祭りの後の何とも言えない空しさと言ったらいいでしょうか。週間単位で考えても、日曜日に楽しんだ後の月曜は憂鬱なものです。このような反動がじっさいにありますから、恵まれた、祝福された後は慎重でなければなりません。ただ、予期不安とは違います。

④ 悪魔の策略

これが霊的スランプの究極的原因と言っています。悪魔の最大の目的は人がキリストの救いを受けないで滅びるように仕向けることです。そのためにクリスチャンを抑圧して、落ち込みと憂鬱に閉じ込めてしまいます。そして、世の人にその姿を見せて、「ほら、クリスチャンはこんな顔してるんだぜ。お前もそうなりたいのか?」と語りかけるわけです。詩篇の著者もはじめ、そのような悪魔の策略にはまって落ち込みの中にいました。
いろんな原因を述べましたが、霊的スランプの本当の、一番の原因は、クリスチャンが試練や問題の中で悪魔の攻撃にさらされ、そして、その中で悪魔に同意して不信仰に陥ることであるとジョーンズ師は言っています。抑圧の中で神を忘れてしまう。そのために神の力を知らず、信仰を働かせることを放棄し、神との正しい関係から脱線してしまうと言うことです。その時、その人は悪魔の影響下にさらされ、本人の意図とは違ってはいても、悪魔に聞き従っているのです。

5.自己に私が語りかける

霊的スランプの解決策はこれから数回に渡って学んで行きますが、最初に解決のヒントとしてジョーンズ師が教えているのは「私が自己に語りかける」と言うことです。
「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」詩篇42篇5節。
信仰生活の幸福感の喪失は、その人の環境ではありませんし、その人を傷つけた誰かでもありません。問題や試練の中で落ち込もうとする自己、嘆く自己、悩み、いじけ、憂鬱になる自己に自分が聞き従っていることが原因だと言っているのです。この意味がわかるでしょうか。人間は生まれながらの罪人です。自己を放置すれば、自己はその罪深い性質に流されて行きます。しかし、私たちはその自己と自分を分離させて意思によって対抗することができます。この著者は絶望している自己に自ら語りかけています。苦悩の中で自分の殻に閉じこもる代わりに自己に「神を待ち望め」そして、神を賛美し、落ち込みを拒否しているのです。
『意味のある信仰生活を送る「秘訣」は自己を制する方法を知ることである。抑圧され、喜びを失った境遇にあって、嘆く代わりに自己と対決し、うなだれる自己を非難し、訓戒し、「神を待ち望め」と自己に私が語りかけなければならない。自己を退け、他の人々の言葉を退け、悪魔とこの世を退け、「わたしはなおも神をほめたたえる」と詩篇の著者のように言うことである。』霊的スランプを克服する大切な要素は、自己、つまり自分の中にいる古い別人格をコントロールする方法を習得することである。失望し、うなだれる自己を放置しないこと、主導権を渡さないことが大切です。古い自己に主導権を渡すならば、いつまでもこのスランプの中で抑圧され続けるのである。私が自らみことばに堅く立って主導権を持つのです。

後悔する人生を送らないために

ホスピス医療の大津秀一医師は何千人もの臨終を見届けました。その大津医師の書いた「死ぬ時に後悔すること25」という本があります。患者が自分の人生を振り返り、後悔していることを「25の後悔」にまとめています。その8番目の後悔に「自分の感情に振り回されて生きた」と言うのがあります。ある患者が泣きながら、「私が怒って来たこと、泣いたことは大したものではなかったのです。あれこれ些細なことに怒り、反応して心を惑わされていました。死ぬとわかった今、そのことを冷静に振り返ることができるのです。だから、誰かを妬んだり、恨んだり、うらやんだりするのはバカバカしいとわかりました。」死と言う重大な局面に対峙した時に、どうでもよいことに一喜一憂した自分を後悔しているのです。私たちは死を前にして後悔する必要はありませんね。今から、古い自己の感情に振り回されないように、自己をコントロールする術を学んで行きましょう。
黙想:
1.正直に分かち合うと、あなたは幸福感があるでしょうか。不幸せと感じていますか。人の前ではどんな態度でいますか。幸せな振りをしていたりすることがありますか。
2.あなたは心の中にある悩み、痛みをどう扱っていますか。① ずっと耐えている。② 誰かに聞いてもらってる。③ 怨念晴らしをしている。④ 趣味などで解消している。⑤ 神様に向かって、叫んでいる。
3.これから悩みや問題のただ中で、どう対処していきたいと思いますか。落ち込む自分をセルフコントロールするためにはどうしたらいいと思いますか。