J師は霊的スランプを克服する必要がある主に2つの理由について語っています。1つ目は本人のためにと言うことです。霊的スランプに陥って、落ち込むクリスチャンとして生きていると、それは本人にとってとても辛いことです。聖書には勝利者としてのクリスチャンが描かれており、主イエスの御名で悪魔を制し、この世を救う使命があります。それなのに、敗北者かのようにうなだれている。これほど矛盾した状態はありません。政治家、医者などの地位にある人は普通の人より、より高い基準でその振る舞いを見られています。それは宿命です。クリスチャンも世の人から当然、素晴らしい生き方をする人たちだろうと見られています。それなのに敗北感いっぱいの自分は耐えられるものではありません。2つ目に、世の人々のためにと言うことです。初代教会ではクリスチャンは証人という生き様がありました。それは自分の生き方を通して、キリストを証しすると言うことです。これは日本人がイメージする品行方正の清く、正しいクリスチャン像は聖書的ではありません。聖書的なクリスチャンとは、逆境にあって、倒れそうで倒れない、どんな境遇でも喜びと感謝を失わない。自分は弱くても、イエス様によって強くされているという確信のもとに生きると言う生き方です。見た目は普通で、むしろ弱そうに見えるのです。しかし、世の人とは土台が違うのです。
「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」Ⅱコリント6章9,10.
1.正しい基礎の上に信仰を立てる
① 信仰義認
私たちがどんな状況でも力強く歩める理由は、その基礎にあると言えます。その基礎に信仰を築いているからこそ、揺るぎない心で歩むことができるわけです。それではここから霊的スランプを脱出するために、正しい基礎を確認していきましょう。はじめのボタンをかけ違うとすべてが間違ってしまいます。聖書が教える初歩の初歩である教えを正しく認識しないと、この霊的スランプからは抜け出すことはできません。正しい基礎とは「信仰義認」です。
「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」ローマ3章28節。
このことを話すと、当たり前すぎてバカバカしいと思うかもしれませんが、信仰義認を本当に理解して、体験している人はそう多くはいません。アメリカでは「私はクリスチャンです」と自己紹介しても、次の質問に「新生しているクリスチャンですか?」となります。キリストによって罪赦され、義とされることを本当の意味で受け取っているクリスチャンは一部なのです。18世紀のジョン・ウェスレーもクリスチャンホームで育ち、神学校を出て、牧師になりましたが、信仰義認がわかったのは、37歳の時です(ウェスレーが救われたのはその時か、以前からなのかは議論されています)。教職者でさえも信仰義認がよくわかっていなかったのです。
② 信仰義認を破壊するもの
パウロの信仰の闘争は、この信仰義認を守ることに終始していました。ユダヤ人は律法を守ることで神との関係を築こうとしていました。自分の行為に焦点があっていて、自分の行いこそが、自分の人生を左右すると考えています。この律法主義をパウロは徹底的に攻撃しています。律法主義者は本物のユダヤ人ではないとまで言っています。
「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」ローマ2章29節。
マタイ18章で1万タラントの借金をした、しもべの話があります。ある人が日本円で計算したところによりますと、1万タラントとは6千億円に相当すると言っています。どこかの県の年間予算に匹敵します。そんな巨額なお金を王様に借金したのです。王様が催促すると、驚いたことにこのしもべは、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』・・借金を返すと弁明しています。6千億円を返せると思っているのでしょうか?律法主義者の特徴は自分をかいかぶっているということです。信仰義認を受け入れた人なら、その生活、生き方が信仰義認に根ざしていなければなりません。信仰によって救われたと言いながら、その生き方が自分の行いで義を立てようとするなら、それは基礎を忘れた生き方です。なぜ、そのような生き方をするかと言うと原因は2つほどあるようです。1つは、1万タラントを借金したしもべのように、自分の借金(罪)がどれだけ大きいか理解できていないと言うこと。6千億借金があるのに、立派な行いをして千円、神に返済したからと言って満足する人は滑稽です。自分の力で生きようとする人は、自分が返済不能の人間だと言うことを知らないのです。「自分には欠点もあるけど、良い所もあるはずだ」と勘違いするから、何か自分の力で何とかなると錯覚が起こります。霊的スランプを脱したいと思う時に、それが御霊の力によって成されるものだと知らない人は、「自分にはできない」となって、落ち込みます。2つは、新生された命よりも、古い自分に執着する場合です。自分の力で何かを実現したい。何か特別な存在でありたいと、自己実現をめざす人です。古い人は死んで、新しいいのちに生きるように勧めているのに、何かを成し遂げたくて仕方ないのです。この世の価値観ではそのような自己実現を持ち上げます。騙されないように気をつけましょう。
2.深い罪の自覚
① 神との関係で自分を量る
信仰の義認を享受するための第一のステップは「深い罪の自覚」です。前章で1万タラントの借金のしもべの話をしましたが、このしもべは自分が返済不能の借金を王様から赦してもらったのに、友人に貸したわずかなお金を赦免できず、首を絞めて牢屋に入れました。この話を聞いたら、なんてひどい男だと思います。しかし、私たちも似たような感覚をもっていることがあります。私たちは人間関係の中の比較で自分を見てしまいます。他の人と比べて負い立ちが不幸だとか、虐待された、愛されなかった、だから自分は不幸だと感じます。つまり、被害者の感覚です。人間関係で見たらそう言えるかもしれません。しかし、聖書は神と自分の関係を教えます。神の似姿に創造された人間は罪を犯して、神のイメージを破壊してしまいました。私たちは自分を傷つけた誰かに対しての落し前をずっと問題にします。しかし、1万タラントの借金をした神様にはそれほど傷つけた、ひどいことをしたと自覚はありません。むしろ、自分の人生について文句や怒りさえ抱いています。これこそ罪の自覚のない人の特徴です。人間関係の被害の部分は、神様との関係で赦すことが可能です。いずれにしても被害者意識を捨てない限り、信仰義認の最初のステップをクリアすることはできません。J師は「まず初めに倒れることがないかぎり、再び立ち上がることはあり得ない」と言いました。これは逆説になりますが、本当の喜び、揺るぎない信仰に至るには、まず、絶望、落ち込みが必要だと言うことです。人と比べたり、環境がうまくいかないで落ち込むのとは違い、神の御前で自分が罪人だという自覚で嘆くと言うことです。
「また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」ルカ2章34節。
救世軍の創始者ウィリアム・ブースは、奥さんの証言することによると、毎晩、部屋で祈る習慣があったそうです。そして、そのたびに泣き声が聞こえて来て、罪の赦しを乞う祈りをささげていたそうです。救世軍とはメソジスト派から出たグループで、きよめ派と言われる人たちです。どの集団よりもきよめを強調して、きよめを人生の目標とするのです。ブースも当然、とても敬虔な生き方をしていました。そのきよい生き方をしているはずのブースが毎日、泣き崩れるほどの悔い改めをしていたのです。ブースには深い罪の自覚があったのです。自分は殺人者ではないかもしれない、政治家や偉い人たちのように裏で悪いことをしているわけでもない、それでも自分は彼らと変わらない、同じ心の闇を持つ、神の御前でひどい罪人だという自覚が必要なのです。
深い罪の自覚をもたらすには、1つは神様の与える環境に身を置くことです。神様はいたずらに私たちを今の環境に置いているのではありません。この環境を通して、自分の心を探らせ、罪の自覚を与えて、自分では人を愛せないことを悟らせ、神に頼るように導かれるのです。自分が嫌だと感じる人、問題がある人、そのような人こそ、自分の罪を悟らせるために神様が与えた人です。それなのに私たちはそういう神様が与えた人を、避けようとします。会社も教会も出て行く理由は教理とかの問題よりも人間関係にあるようです。人と葛藤が生まれた時、自分の心の闇が表面化します。それが嫌でみんな問題を避けるのです。外に問題があると思うのです。ですから、いつまでも自分の罪が表面化しません。神様が与えた環境で学ぶ態度を持ちましょう。
2つ目は、みことばによる罪の自覚です。イザヤがみことばに触れて、自分の罪に震え上がったような、みことば体験が必要です。聖霊により頼みながらの真剣なディボーションが必要です。
「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」 ルカ7章47節。
深い罪の自覚とその赦しを体験した者が、愛を知り、愛に生きることができます。
② 一番問題にすべき罪
J師は私たちが犯す罪の中で、人間関係や犯罪の部類を中心に考えていることを指摘している。本当の罪の本質は神との関係で犯す罪だと言います。
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」マルコ12章30節.
私たちが自分を吟味する最重要なことは「私は全身全霊をもって主を愛しているだろうか?」もし、そうでないなら、それこそ罪人であると言っています。ウェストミンスターの信仰教理問答の最初に書いてあるように、「人間の究極的目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を楽しむことである。」人間は神と一つになり、神の栄光のために生きることが造られた目的です。そこに本当の意味で幸せになる道があります。しかし、現実の私たちはどうでしょうか?実際には自分の栄光のために、自分の幸せを追求していることはないでしょうか。それが罪の本質だと言うことです。そのことに心を痛めたり、罪の呵責はあまりない気がします。私たちはイエス様を信じて、永遠のいのちの中に入っています。天国に入ればもらえるのではなく、すでにいのちの中に入っているのです(Ⅱコリント5:17)。そして、その永遠のいのちは神を追求していく中にあるのです。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 」ヨハネ17章3節。
ホセア書で何度も不貞を働かす女がイスラエルで、それを赦し、心を傷つけられているのは神様だと表現しています。これだけの片思いはどこにもありません。私たちを傷つける者はご自身の「瞳に触れる者(ゼカリヤ2:8)」と表現しています。格闘技好きの私にはこの意味がよくわかります。瞳は一番大切で攻撃してはいけない反則の部分です。私たちを瞳のように守ると言っているのです。何よりも十字架でご自身の大きな愛を示したお方です。このような熱愛で私たちを見守る神様に私たちはどれだけの思いを寄せているでしょうか。私たちは誰かが自分を無視しているのではないかとか、連絡をくれないとかで悩みますね。これを神様の視点で考えると、それだけ神様を無視し、その愛に応えていないかを知ります。私たちも親になれば、子供の無神経さに苦しめられます。そんな時、自分の子供の頃がどれだけわがままで、親を苦しめていたのか、親の心、子知らずであったかを知ります。「神を心から愛さない」これこそ罪だと言うわけです。
3.偉大な救いを知る
自分が1万タラント(6千億)の借金を抱えて、どうしようもなかった時に、それを赦免してもらうなら、その赦しをどれだけ感謝しても尽きることはありません。本来、私たちは地獄に行く存在でした。地獄とは永遠に続く苦しみの場所です。私たちは地上の苦しみで疲れ果てていますが、地上では夜眠ることもでき、趣味や楽しみもあります。しかし、地獄は一瞬たりとも休まることのない絶望的な場所です。よみに下った金持ち(ルカ16章)は自分の舌を冷やすことも許されません。わずかな慰め、憐れみもない場所なのです。V・フランクル博士は人間はどんな苦しみの中でも希望があるなら、生きることができると言いました。しかし、地獄は永遠の滅びですから、希望のかけらもありません。そこに当然のように真っ逆さまに落とされると運命づけられていた存在である私たちが、なぜか恵み、憐れみで救われると言うのです。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6章23節。
ある人たちはイエス様のことを、自分の人生の模範とする道徳の教師のように、またある人は、自分を祝福してくださる、ご利益の神かのように考えます。ですから、他の宗教と変わらない薄っぺらな信仰にとどまるのです。深い罪の自覚があって、その絶望の中で、キリストを仰ぐ時に青銅の蛇を仰いだ荒野のイスラエル人が救われたように、私たちの救いがそこにあります。どんなにかその救いが偉大で、感謝なことなのかを知ります。この偉大な救いを知った人には以下の態度が現れます。
① 自分に執着しなくなる
自分は罪深くて、どうしようもない存在だと深い罪の自覚によって悟っていますから、自分を見なくなります。キリストの成された御業に注目が行きます。証しをする時は、自分の至らなさはほどほどに神がどれだけ素晴らしいのか、その神をほめたたえずにはいられなくなります。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル12章2節。
② 自分に頼らなくなる
自分が絶望的な存在だと自覚しているので、自分に頼ることはなくなります。対照的に、キリストの偉大さがよくわかるので、そのお方に完全に依存し、より頼む人生になります。自分でやるという意識がなく、キリストが私を通して行うと考えているので、かえって大胆になり、どんな不可能に思えることにでも挑むようになります。
③ 比較で生きなくなる
今まで比較対象で生きていたので、人を見ては羨み、嫉妬していましたが、何もできない絶望的な自分を救う神が自分を愛していると知っているので、比較対象から自由にされて、羨んだり、嫉妬したりがなくなります。人の言葉にも傷つかないようになります。そして、自分が1万タラントを赦された罪人ですから、人に対して、寛容にならざるをえません。
④ 感謝と喜びがあふれる
地獄が運命であった自分が、神様の憐れみ、恵みで救われたので、自分の人生は拾われた人生、おまけの人生のように思えます。環境に関係なく、自然と感謝と喜びがあふれて来ます。御子さえ惜しまず与えるお方がともにいるので、どんな災いのような環境になっても、きっと良くしてくださると信頼に包まれています。
⑤ 依存症・偶像から解放される
キリストの愛と赦しを知ったら、今まで大切にしていた物、人に執着したのが馬鹿らしくなります。もちろん私たちには仕事、家族、財産などは大切なものですが、キリストに比べれば色あせてしまうのです。キリストには変えられませんと、心からそう思うのです。
イギリス生まれのジョン・ニュートンは産業革命のただ中で、ひと儲けしようと貿易を始めました。アフリカから黒人を捕らえて、アメリカへ奴隷を売る商人として繁盛していました。彼は信仰深い両親に育てられましたが、やがて無神論者になり、哲学で自分を支えるような人になりました。そんな彼もある時、イギリスに帰る途中に彼が所有する船グレイハウンド号が大嵐に見舞われました。破損した船体に海水がどんどん入り込んできて、絶望的な状態でした。自分の体をロープに縛り付け、9時間にも及ぶ恐怖の時間の中、彼は自分の人生を振り返りました。罪人の限りを尽くした自分、それにもかかわらず、神を認めず、背いた人生。それらを悔い改めて、神に赦しを乞い、救いを求めたのです。そして、奇蹟的に彼は助かったのです、その時、彼の心に神の憐れみと救いが迫ってきました。彼はその体験を期に、クリスチャンになり、牧師として働きます。そんな中で書いた詞があの有名な「おどろくばかりの」です。
Amazing Grace! How sweet the sound
大きな恵み、なんという甘美な響き
That saved a wretch like me!
私のようなろくでなしを救って頂ける大きな恵み
I once was lost, but now am found;Was blind,
かつて、私は自分を見失ってた でも今、わたしは、
私が何も見えなかったということに 気がついた
but now I see.
しかし、私はいま見える
ニュートンは自分の死を直前にして、このような言葉を発しています。
「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。一つは、私がおろかな罪人であること。もう一つは、キリストが偉大な救い主であること。」ジョン・ニュートン
黙想:
1.あなたはまったくの恵みによって救われたという確信がありますか。今でも、良い行いで自分が正しいとされたい誘惑があるでしょうか。
2.あなたは自分がまったくの罪人で、1万タラントの借金をしたしもべと同じ立場だと自覚していますか。「あの人よりはまし」とか思うことはないですか。
3.自分の無力さを思い知らされた体験がありますか?それは神様がどう扱ってくださったか、分かち合ってみましょう。