私の家の隣には私が小学生の頃、通った母校があります。
私が5年生の時に新築した校舎はすでに取り壊されて、同じ場所に立派な校舎が建っています。
30年前後で取り壊される建物もあれば、法隆寺のように1400年もの年月が過ぎても建ち続ける建造物があります。私たちの信仰生活の中にも霊のムーブメントや手法、流行の教えがあって、竹の子のように大きくなっては消えてなくなります。しかし、決して消えることのないものもあるのです。原典である聖書そのものは当然のこととして、聖書以外にも、聖書に立つ正統的教え、それは宗教改革の中で起こった流れであったり、アウグスティヌスなどの教父、その他、聖書主義に立つ信仰者が書き残した古典と言われる良書、教えです。古典を読むと、私のような者は、固い文章を読むのに苦戦しますが、それでも、そこに流れるものに感銘を覚えます。単に知識ではなく、神との格闘の中で体験的に培われた変わらぬ神学、教えというものがあるのです。