今こそ宣教を考える

 
 広瀬隆氏が昨年出した本において、地震の多い日本でいかに原子炉が危険かをすでに警告していたことがわかる。この本の書評をアマゾンで覗いて見ると、広瀬氏が専門でないことを理由に、トンデモ本であると科学者や専門家からは断定されて、嘲笑されていたと言う。

 しかし今回、広瀬氏が警告していたことが現実に起こってしまったわけである。ユーチューブで、氏は震災の後、自分の警告通りになったことで、とても悲しんでおられた。私は広瀬氏を見て、17年前の松本サリン事件を思い出した。事件が起きて、めずらしい薬品を所有していたと言うことで、真っ先に河野さんが犯人に疑われた。テレビは連日、河野さんがあたかも犯人かのように報道した。日本人の多くも「彼が犯人では」と思ったことだろう。しかし、河野さんの疑いが晴れたのは、皮肉にも東京で地下鉄サリン事件が起こってからであった。テレビ朝日の報道番組で衛星中継で出演した河野さんは、「このような形で自分の無実が証明されて、これ以上悲しいことはない」と涙ながらにコメントをされていた。自らが訴える真実な内容が、不幸な形で証明されることは、何ともいたたまれないことである。

 エレミヤが生きていた時代は、バビロンの脅威が刻々と迫るそういう状況でした。イスラエルはまことの神に背いた偶像崇拝の罪を直ちにやめて、神に立ち返る緊急性がありました。しかし、当時の預言者は人々の心を問題に向けさせず、「偽りの平安」を与えることを常としていました。そんな中、エレミヤは立ち上がり、民にとっては耳の痛い警告を語り続けたのです。しかし、警告すればするほど、エレミヤは孤立し、笑い者にされ、迫害されました。民は自分が願っていること、見たいもの、聴きたいことだけしか情報として拾いません。それで自らに心地よい偽預言者のことばを信じたのです。結果は聖書にあるとおり、エレミヤの警告が成就し、国は滅びてしまいました。バビロンに連行されて行く、同胞の民を見て、エレミヤはどんな気持ちだったでしょうか。

エレミヤの一昔前にいたイザヤも同様の警告をイスラエルに発するように神様に命じられた。その時、神はイザヤが民に警告したとしても、彼らは悟らず、悔い改めないことを事前に予告した。「すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』 」イザヤ6章9節。神はイザヤに悔い改めないとわかっている民に警告するように、不毛な使命を命じたのである。イザヤは複雑であったであろう。しかし、このことはイエス様にも見られることだ。『ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。』マタイ23章37節。 パリサイ人たちに何度もかかわって、教え、警告を与え続けてもイスラエルの指導者たちは悔い改めない。自分のもとに来ないとわかっていても涙をもって語り続けるのである。

 

 今、日本は未曾有の災害に遭っている。これで、日本人が霊的覚醒に至ることを望む一人ではあるが、じっさいどれぐらいの人が回心するのかわからない。黙示録では歴史上なかった神の最大の怒りの鉢を投げ込まれた時、地上の三分の一は死にます。しかし、なおも悔い改めなかったとある。私たちの宣教とは、それだけ困難な働きだと言える。このような目に遭っても、多くは神を見いださないかもしれない。それでも、日本人のために涙し、とりなさなければいけない、大きな重荷がのしかかる働きだと言える。私たちはイエス様が人類のために十字架にかかり、贖いを完成させたこと、それを信じる者に永遠のいのちが与えられ、信じない者は罪に定められ、永遠のさばきを受けるという宣教のことばを、人々が地獄の入り口をくぐった時に、福音の真実が証明されることを、なんとしてでも避けたいのである。そんな悲しいことはあってはならないと強く思う。たとえ、この宣教が困難であっても、人間の強固で頑なな心を、憐れみの神が開いてくださることを求めて、その扉が開かれることを信じて、宣教していくのである。